また、「沖縄に基地はいらないというのはアメリカに対するヘイトスピーチだ」などとしつこく絡んでくる人に、「あなたはあまり知識がないようなので、この本を読んでからまた議論しましょう」と各分野のわかりやすい新書などを紹介していたこともあるのだが、それについても応じてくれた人は皆無であった。すでに学術的に答えが出ている問題を蒸し返し、「それについては歴史学会が解答を出しています」と言っても「学者なんてウソばかりだ」といっさい顧みようとしない。
つまり、「知や学問」「歴史」「書物」などが徹底的に軽んじられているのだ。それよりも彼らが重んじているのは、「誰」ということだ。「片山さつき議員も言ってます」「百田尚樹先生のツイッターで見た」などその人が言うことならすべて正しい、と信じて疑おうとしない。たしかに彼らが名前をあげる人は政治家や作家としては影響力のある人物かもしれないが、その人があらゆる分野において学術的な知見を述べられるとは思えない。しかし、ある若者たちにとっては、見たこともない書物や欧米のオピニオン紙などより彼らの短いコメントのほうがずっと信憑性の高いものに思えるのだろう。
この9月以降、大学改革が進んでいる。国立大学には文部科学省から「人文系より理系に力を入れるように」といった内容の通達があり、とくに文学や哲学など実用に直結しない分野は今後、生き残りがむずかしいのではないかと予測する研究者さえいる。その理系にしても手厚く予算が配分されるのは「実利や商業主義」につながる分野だけでは、と9月23日に朝日新聞に掲載されたインタビュー記事で学問の壊滅を危惧していたのは宇宙物理学者の池内了氏だ。そしてその危惧通り、10月に行われた大学改革に向けた有識者会議では、経営コンサルタントが「簿記や大型運転免許などの資格取得を目指すL(ローカル)型大学」を提案した。
もちろん、学者がいわゆる「象牙の塔」にこもり「机上の空論」にふけっていればよい、という時代ではない。しかし、「歴史? 知らない。世界の潮流? 関係ない。書物? ウソばかりだろう」と自分の感情にまかせてヘイトスピーチを垂れ流す若者たちと、政府や文科省など国をあげての「すぐに役立つものだけを学問と呼ぶ」という動きとは、どこか通じているような気がするのだ。
また学問の世界の住人たちも、保身のためにのみ自分の研究分野の存在価値をアピールするのではなく、「知」こそが社会の理性を保ち、視野を広げ、自己を抑制する上でもっとも大切であることを、積極的に訴えてほしい。同じように出版界の人たちも、本が大切なのは単に自分の業界が潤ってほしいからではない、と基本に返って考え、世間に問う必要がある。これは将来的な問題ではなくて、きわめて喫緊の切実な問題だ。