いま先進国で主に問題になっている「貧困」は、食べることさえ困難な「絶対的貧困」ではなく、その社会の平均の半分以下の所得で生活する「相対的貧困」のほうだ。そうした家庭では、明日から急に食べるものや着るものがなくなるわけではないが、ギリギリの生活となり子どもに十分な教育を受けさせることができない。そうなると子どもはなかなか正社員として採用されず、結果として貧困状態が続くこととなる。またちょっとしたことで、貧困がさらに悪化することもある。
私が勤務する私立大学でも、なんとか入学金と初年度の学費までは払ったが、次年度以降が続かず退学する学生がいる。「親が体調を崩し、これまでやっていた副業ができなくなった」「自分も家計を助けるためにバイトしなくてはならない」などと言うのだ。ネットで女子生徒を叩いた人たちは、こういうケースに対しても「ぜいたくして私大に入るのが悪いのだ」などと批判するのだろうか。
ただ、今回の問題点は、それが「絶対的貧困」か「相対的貧困」かといったことではなく、自分のためだけではなく「子ども全体の貧困をわかってほしい」と願ってインタビューを受けた女子生徒が批判され、あっという間にプライバシーが暴かれる、という事態そのものだ。批判した人たちは、あたかもそれが正義の行為であり、悪い者を退治するかのように「こんな情報もあった!」「なんと映画館に通っていたことが発覚!」と報告し合って興奮状態に陥っているように見えた。しかし、繰り返すが女子生徒は何らかの悪事を働いたわけでもなんでもなく、それどころか、勇気を出して顔を出して声を上げただけなのだ。
攻撃した人たちの中には、「自分のほうが貧しい」「女子生徒のぜいたくがうらやましい」などと言う人もいた。おそらく「被害者は自分だ」という意識があり、自分ではない者が被害を訴えたり自分以外の人の救済のために動いたりすることじたいに憤りを感じるのだろう。もっと言えば、「助けてほしいのは自分だ」という感覚だろうか。だとしたら、本来は自分で「私はこんなに厳しい生活を強いられている。精いっぱいバイトしているのにこれはおかしい。最低賃金を上げるなり若者支援にもっと力を入れるなりなんとかしてほしい」と声をあげればよいのだが、それもできない。もちろん、だからといって自分のかわりに声をあげた人を匿名で攻撃し、足を引っ張るようなことをしても、誰にとっても何の得もないのは言うまでもない。
「あなたもたいへんかもしれないけれど、私だってたいへんだ」と主張するのは間違っていない。しかし、いまの社会に蔓延(まんえん)しているのは「私だってたいへんなんだから、あなたは黙れ」「それでも主張するなら黙らせてやろう」という空気だ。その不毛さ、不健全さの果てに、「何かあっても誰も何も言わずにじっと口をつぐんでいる」という全体主義が待っている。全体主義は権力者がそうさせるのではなくて、一般大衆がそれぞれを監視し合い、自粛、萎縮のムードを作り上げて完成に向かう。政治学ではそれを「沈黙の螺旋(らせん)」と呼んでいるが、今回の問題で日本社会はすでにこの螺旋階段を何段か上がりかけていることがはっきり証明されたと言えよう。