同病院の入院患者には高齢者も多く、そこで看取られる人も少なくなかった。同じ階では7月以降、48人が亡くなっているが、院長は「やや多い印象」と述べている。その人たちはすでに荼毘(だび)にふされており、これからその死因を改めて検証するのは困難だが、病院では「中毒死はほかにもいなかったのか」と動揺が広がっているという。
誰もが連想するのは、今年の7月に同じ神奈川県で起きた障害者施設での大量殺人事件だ。あの事件で犯人として逮捕された20代の男性は、「障害者は安楽死させるべき」という特異な考えに基づいて犯行に及んだことがわかっている。先ごろ、この問題を検証した厚生労働省の検討委員会の中間とりまとめが発表されたが、今年2月にこの男性が精神科病院に措置入院したときは「躁状態」や「妄想」も認められてはいたものの、13日間の入院期間のうちにそれらは消退し、退院後に外来を受診したときはむしろ落ち込みぎみだったことが明らかにされた。つまり、特異で持続的な妄想にとりつかれての犯行ではなく、障害者は社会から排除されるべきというこの考えは、彼の根本にある思想であった可能性が強いのだ。
もしかすると、今回の事件でも犯人には「高齢者を生かしておく必要はない」という排除の思想があったのではないか。その考えにもとづいて社会復帰の可能性の薄い高齢患者や意識のない患者を死に導いていたとしたら、動機はまさに障害者施設の襲撃事件と同じということになる。
さらに恐ろしいのは、ネットを中心にこういった排除の思想に対して、「たしかに障害者を税金で養うのは理不尽だ」「高齢者がいつまでも入院しているから医療費が膨れ上がるのは事実」と共感を示す声が少なからず上がっていることだ。彼らは「殺人は法律で禁じられているが、犯人が抱いていた排除の思想じたいは“正論”だ」と言うのだ。
もちろん、これが正論などであるはずはない。しかし、その理由を説明してみろ、と言われるとそれは意外にむずかしい。「どんな人でも何らかの側面で社会に貢献している。障害を持つ方も作業所などで一生懸命、働いていたり、その存在が家族にとって喜びであったりしている」と説明する人もいる。しかし、仮に生まれたときから意識もなく、ずっと病院や施設ですごし、家族からもうとまれている人がいたとしたら、その場合はどうなるのか。「何らかの形で役に立っているから」という説明は、彼らには通用しなくなる。
ひとの手をわずらわせるだけでいっさい経済活動や社会活動に貢献できなくても、たとえ家族からさえも「いないほうがいい」と思われていても、生きている限り、その人には生きる権利もあるし価値もある。やはりこれが基本だろう。そこには何の理屈も説明もない。「どうしてそういう人をわれわれが支えなければならないのか」ときかれたら、「それが人間というものだから」としか言いようがない。そして、これまで私たちは長きにわたって、「そういうものだ」とお互いに信じてこの社会を成立させてきた。
ところが、ここに来てそんな自明の理にさえ「どうしてそんなことをしなければならないのか」と疑問を持ち、それを破る暴挙に出ることを評価する声が上がるようになっている。その疑問や行いを「タブーに挑戦」と表現する人もいるが、これはむしろ「人間社会の破壊に挑戦」なのだと思う。
横浜市の病院の事件が、そんな排除の思想にもとづいたものではないことを祈るばかりである。そして、私たちはもう一度、「どんな人にも生きる権利がある」という基本をしっかり確認し合う時期に来ているといえる。「今さらそんなことを」と苦笑している場合ではないのである。