この事件では、女性は「人の死」におさえがたい興味を持っており、被害者への恨みなどは何もないままに、宗教に勧誘されて知り合ったその女性を絞殺したことを自分で認めている。女性のツイッターにも、日本の猟奇事件への関心を思わせる投稿が多数みられた。
他者の気持ちへの想像力や共感性が著しく乏しいこの女性には精神鑑定が行われ、公判には鑑定を行った精神科医も出廷した。
出廷した2名の精神科医は、ひとりが「検察側」、もうひとりが「弁護側」として意見を述べた。ふたりの鑑定結果は、女性は「発達障害で二次的に双極性障害(注・躁うつ病)の状態にもある」と一致していたが、それと犯行との関係を問われると意見は真っ向から対立した。
犯行に与えた精神障害の程度について、検察側の医師は「重症ではない」、弁護側の医師は「重症」との見解を示したのだ。
検察側の医師は、「障害は重篤ではなく、犯行に与えた影響は限定的」「犯行は、自由な意思に基づく行動」と指摘した。また、逮捕後にも殺人欲求がまだあることを女性が認めたとして、「他人に害を与える恐れはいまだに存在している」と述べた。
一方、弁護側の医師は、「障害は重度で、善悪の判断もできない」と主張。また、検察側の医師が女性が犯行時は軽度の躁状態だったと述べたのに対して、気分の波を表したグラフを示しながら「犯行時は重度の躁状態で抑止力が効かず、一直線に突き抜けるように行動した」と説明した。加えて、逮捕後、薬を服用することで一定の効果が見られたとして「早急に専門治療や教育を開始すべきだ」とも語った。
今回、検察の求刑通り無期懲役という判決が下されたということは、「事件時には心神喪失状態」という弁護側の主張が退けられ、精神鑑定結果も検察側のそれが採用されたと考えてよいだろう。
理解がむずかしいのは、女性は名古屋大学に入学できるほど学力は高く、おそらく理性では「人を殺すのはいけないこと」と十分にわかっていたはずだ、ということだ。それにもかかわらず、「人の死」への興味を抑えることができず、それを行ったら被害者そして自分やその周囲にどういう結果がもたらされるかも知識としては知っていたはずなのに、ついにはそれを実行してしまった。それはいったいなぜなのか。
おそらく女性には、名古屋に来てから彼女の状況を理解した上でサポートしてくれる環境がなかったのだろう。知的レベルが高い人でも、発達障害を持っていて自然に他者に共感、同情するのがむずかしい、というケースはしばしば見られる。そういう人が大学などでそれを自己申告し、専任のカウンセラーがときどき「最近、対人関係などで問題はありませんか」と率直にきくような体制が整っていれば、この女性のような人も「実は、人を殺してみたい気持ちがあって」と打ち明け、「それを実行しないためにはどうしたらよいか」などと話し合うこともできたかもしれない。
発達障害とおぼしき人の数は最近、急増しており、それが過剰診断によるものなのか、それとも本当に増えているのか、専門家の中でも議論が分かれている。しかし、実際に「知的には高いが善悪や他人への共感がまったくわからない人」は一定数おり、その人たちをモンスターとして扱うのではなく、その特性をきちんと理解した上での適切なケアやサポートを受けられる環境の整備が急がれる。この女性は「無期懲役」の刑期の中で、じゅうぶんな医療や心理ケアを受けることができるのだろうか。少しでも反省や罪の意識につながるきっかけが得られることを願いたい。