おそらく多くの人は、今村氏がなぜこのような失言をしてしまったのか、理解できないのではないか。万が一、心のどこかを「自己責任」「東北でよかった」という思いがよぎったとしても、それを口にしたらどういう結果になるかは、中学生くらいの子どもでもわかるはずだ。たとえば自分が町内会の防犯係になったとしたら、その知識があまりなくてもあいさつでは「町内の安全維持に務めます」などと言うだろう。そこで「犯罪にあう人は自分の責任」「ほかの町ならいくら犯罪にが起きてもよい」などとは間違っても言わないと思う。
「常識では考えられないことを口にしてしまう」ときには、精神分析学ではその人の無意識という心の深層の働きが関係していると考える。人が自分で自覚しコントロールできる意識とそれができない無意識とでは、しばしば考えていることや目指しているものが違う場合がある。そういうとき、それに気づかない意識に業を煮やしたかのように、無意識が強引に自分の考えを表に出すことがある。本人はそんなつもりではないのに、思わぬ言葉が口をついて出たり意外な行動を取ってしまったりするのだ。
もしかすると、今村氏も心の奥では「自分は復興担当の仕事には向いていない」と思っていたのではないか。「そろそろ辞めたほうが自分のためでも被災地のためでもある」と感じて辞めたがっていたのかもしれない。しかし、意識の部分では「何としても大臣で居続けたい。これは適職だ」と思っている。そこで、無意識の意図により、重ねての“失言”が起きて、このたびの辞任となったのだ。本人はいまでも「辞めたくなかった、残念だ」と思っているはずだが、深層心理は「やっと辞められてよかった。もともと自分は被災地復興などには向いていなかったのだ」と安堵しているかもしれない。もちろん、だから今村氏の失言は避けられないものだったということにはならないし、総理の任命責任も問われなければならないのは言うまでもない。
なお、ここまでの話は精神分析学を用いた一般論であり、この解釈が今村氏に正確にあてはまるという確証があるわけではない。とはいえ、こうして私の専門である精神医学や心理学を使って権力者や公人の深層心理を分析するというスタイルの社会批評は、昔から外国でも日本でもよく行われてきた。それが最近は、「会ったこともない人の心を臆測で語るな」「公人について精神医学的に語るとは失礼だ」といった批判が寄せられることが増えた。マスメディアも「いまの政治家たちや社会の深層心理を分析してください」とコメントや原稿の依頼をしないのか、かつて心理学者の岸田秀氏が『ものぐさ精神分析』(1977年、青土社)で行ったような“心の専門家”による政治論、社会論を目にする機会が少なくなっている。
いまの日本は誰から見ても“曲がり角”の重要な時期を迎えている。こういうときだからこそ、さまざまな専門家たちによる闊達(かったつ)な分析、批評を聞いたり読んだりしたいものだ。
そして、今村氏の後任として東北出身の吉野正芳氏が復興大臣となったが、今度こそは被災者の気持ちに寄り添い、誠意ある対応を行いながら、国民にもしっかり国の方針や政策を説明してもらいたいと願っている。