福島みずほ議員が4月18日に提出した質問主意書の「加計理事長が今治市に獣医学部を作りたいと考えていることをいつから知っていたか」という問いへの答弁書にも、「総理は平成19年11月には知っていた」と考えられるような記載があったという。
一般的に考えて、過去に発言したことと前日の発言が矛盾していると言われ、それが本当に混同やカン違いであるならば、前日の発言のほうを訂正するのではないか。このケースなら、こんな具合になるだろう。「昨日は1月20日の認定のときと言ってしまったが、計画の概要だけは申請段階で知っていた。詳細を知ったのが認定の日という意味だった」。もちろんこれでも多くの人は納得しないだろうが、それでも「知った」という言葉の認識の問題としてとらえられたかもしれない。
ところが安倍首相は、過去の発言のほうを今さらながら取り消した。「いまから考えると、過去の発言は間違っていた。昨日の発言のほうが正しい」と言われて、いったいどれだけの人が「過去の間違いに昨日になって気づいたというわけか。なるほど」と納得するだろうか。
なぜ、このような不自然なことをするのか。それは、「同学園の計画は認定までいっさい知らなかった」という主張をあくまで押し通すため、としか考えられない。もし、「昨日の発言は不正確だった」と言ってしまったら、「やはり申請の段階から知っていて、便宜をはかったに違いない」とさらに追及されることになる。それよりは「何年も前の記憶が間違っていた、とようやくわかった」などと言えば、「そんなバカな」と嘲笑され人としての信用を失うことはあっても、加計学園の問題には切り込まれないですむ、と直感的に考えたのかもしれない。「人間としての傷」よりも「政治家としての傷」が少ないほうを選んだ、と言ってもよい。
ところで、経済学の分野では近年、心理学の要素を取り入れた「行動経済学」という学問領域が注目を集めている。従来の経済学は、人間を「合理的かつ利己的で金銭的利益を最大限追求しようとする」とする「合理的経済人」モデルに基づいて構築されていたが、それだけでは経済活動はうまく説明できない。そこで、心理学も援用した仮説を立てながら、不合理な投資や多重債務といった経済現象を説明しようとするのがこの行動経済学だ。
これと同じように、今回の安倍首相の「直近の発言の辻褄を合わせるために、過去の発言をさかのぼって訂正する」というあまりに捨て身の行動を説明するには、もはや従来の政治の理屈ではうまくいかず、「行動経済学」に準じた新しい学問が必要とされる気さえする。
実はすでに「政治心理学」という学問もあるのだが、これは政治家個人の言動を心理学的に分析するというより、もっと広く選挙や世論、外交などについて研究する社会心理学に近いものだ。そしてさらに、かつてアメリカで組織ではなくて個人を分析対象とした「行動論政治学」という学問が生まれたこともあったそうなのだが、信頼性に欠けるとして1960年代には衰退してしまった。
今回の首相の発言に限らず、とくに最近は閣僚などの問題発言や記憶の改ざんなどが目立ち、それが政治に混乱を招いている。今こそそういった不可解な政治家の言動を心理学を用いて分析する、新しい学問が必要とされているのかもしれない。それが政治の成熟ではなくて、政治の劣化の結果、求められているというのは、有権者のひとりとしてたいへん残念なことではあるが。