当然、大きな社会問題になったのだが、複数の報道を時系列順に追いかけていくと、事件を受けてトランプ大統領は記者会見で「いろいろな側面」で問題があったとだけ発言、人種差別を掲げる白人至上主義者たちを名指しで非難するのを避けた。そのあと、メディアなどが一斉に大統領のあいまいな態度を批判したのを受けて、さらなる会見で「人種差別は悪だ」と発言を追加したのだが、それでも批判はおさまらなかった。するとトランプ大統領は次の会見でいわゆる“逆ギレ”し、「(衝突の)映像をじっくり見た。抗議する側も暴力的だった」などと反差別の側を非難し始めたのだ。記者たちが騒然となって「彼らが悪いとでも?」などと口々に質問すると、「オルト・レフト(注・ここでは反対派のこと)に問題はないのか?」「(反対派は)こん棒を振り回しながら向かって行ったんだ!」などと大声でそれを制したのだ。
そもそも、実際の状況や個人の感情がどうあれ、アメリカには公民権法という人種差別を禁止する法律がある。これは黒人差別に反対するキング牧師らによって1950年代に盛り上がった公民権運動を受け、1964年にアメリカ議会で成立したものだ。一方、アメリカは「表現の自由」を最大限に大切にする国でもあり、ヘイトスピーチ(差別扇動表現)をめぐってはいつも議論があるところだが、それでも「人種差別はいけない」というのはアメリカ市民社会の前提になっているはずなのだ。
それにもかかわらず、死者まで出た事件についてアメリカ大統領が「反差別の側にも問題があった」などと言ったのだ。これは、差別をする白人至上主義者側を擁護したのと同じことだ、と多くのアメリカ国民が衝撃を受けても不思議ではない。実際にこの発言を受けてすぐに、製薬会社メルクや半導体のインテルといった大手企業のCEOが相次いで大統領の経済諮問機関を辞任することを表明。またアップル社のCEOは社員への一斉メールで「大統領には賛同できない。アメリカ社会の理想とは違う」として、人権団体に巨額の寄付を行うことを伝えた。
もしこれが日本だったらどうだろう。政治家はアメリカと同じく、「許されない事件」「暴力は容認できない」としながらも、やはり問題は人種差別主義側と反差別側、双方の「衝突」にあったとするのではないだろうか。とくにいま権力を持つ保守側の政治家は、「差別は悪。絶対にいけない」と善悪をはっきりさせるのを避けようとする傾向があるからだ。
しかし、おそらくここからが違う。日本なら、権力者が「双方に非があった」、いわゆる「どっちもどっち」と述べたら、企業がそれに反発する姿勢を見せたりCEOが審議会などから離れたりすることはないのではないか。そしてメディアも、「差別はいけないが反対派も冷静になるべき」などといかにも中庸な態度を取ろうとするに違いない。
これは日米の差なのか。それもあるかもしれないが、別の要因として「時代が変わってきた」ことが背景にあるとも言える。今や「善悪を断定するのは避けたい」「どちらが正義でどちらが悪かは時代とともに変わるからわからない」といったあいまいな態度は、多くの人から忌避されるようになってきたのだ。とくに人権の尊重に関する問題に関しては、社会や時代がどうなっても揺るがない“普遍的な正解”があることに多くの人が気づきつつある。「人種や民族で差別してはいけない」というのもそのひとつだろう。
そういう意味では、「どっちもどっち」と問題をあいまいにして逃げ切ろうとしたトランプ大統領は、旧世代の感覚の持ち主であり、大統領に反発したアメリカの企業は新世代の感覚を有していると言えよう。そして、日本は政治家も企業やメディアも、全体として残念ながら“旧世代社会”のままなのかもしれない。
差別はいけない。差別があるならそれをなくすようにすべきだ。なぜこのシンプルな答えを口にできないのか。私たちがトランプ大統領の“失態”から学ぶべきことは多い。