神奈川県座間市のアパートの一室で9人の遺体が見つかる、という衝撃的な事件が起きた。この部屋に住む27歳の男性が死体遺棄の容疑で逮捕されたが、15歳から26歳までの女性8人、男性1人の被害者は全員、この男性に殺害されたと見られている。現時点で共犯者の存在は明らかになっていない。
調べによると、被害者たちの多くは容疑者とは面識がなく、SNSで知り合ってやり取りをし、「いっしょに死にましょう」といった言葉で誘い出され、アパートを訪れて殺害されたようだ。また、容疑者と被害者たちは、ツイッターを介して出会ったことがわかっている。特に容疑者は、「#死にたい」などといった自殺願望を示すハッシュタグ機能を使い、被害者となりうる人物を検索していた可能性が高い。
なぜツイッターなどの短文投稿サイトに、自分の自殺願望を投稿する人がいるのか。「そんなところに投稿などしなくても、本当に死にたいなら黙って実行するはずではないのか」。そういった声も聞こえてくる。
しかし、私の精神科臨床の経験では、自殺願望を抱く多くの人たちはすぐに決心を固めるわけではない、と言える。まずおずおずとサインを出してみて、誰かがそれに気づくかを確認する。もちろん、サインの出し方によってはそうと気づかれない場合もあるし、まわりに親身になってくれる人がおらず、はっきりしたサインを出しても見向きもされない場合もある。そうなると、実際に自殺もしくは自殺未遂につながる行動に踏み切ることになるが、その時点でもまだ絶対に死ぬという強い意思があるわけではない。ただ、何度か繰り返す中で、「もしこのまま命を落とすならそれでもよい」と考えながら、リストカットや過量服薬を行う人もいる。万が一、それで命を失うことになったときには、周囲にはそれが本人の意図せぬ事故なのか、それとも決意の上の自殺なのか、判断がつかないことも少なくない。
おそらくSNSなどに自分の自殺願望を投稿する人は、「生きるのがしんどい」と思いながらも、日によって命を絶とうという思いが強くなったり、またはもう少し生きてみようかと思ったり、気持ちが揺れている段階なのではないか。だから、「そういう人は死にたくないのだ。ただ誰かの気をひきたいだけ」というのは間違っているし、「絶対に命を絶とうと決意して心中相手を探しているのだから止められない」というのもまた違う。端的に言えば、「誰かに出会っていっしょに死ぬかもしれない。でも、誰かに出会って助かる道が見つかるかもしれない」という“無自覚の賭け”のような気持ちで書き込みを行うのだろう。
今回の容疑者はそれを悪用し、最初は「自分も同じ気持ちだ」と理解者を装って接近し、SNSでの対話を重ねながら、「自分たちだけがわかり合っている」という“ふたりの世界”を作り上げ、被害者が自分以外の人とのコミュニケーションを絶つようにしていった。おそらく被害者も「わかってくれるのはこの人だけ」という気持ちになり、リアルな世界でまわりにいる人には自殺願望を隠して元気な自分を演じたりもしていたのではないか。
もちろん、いちばん問題なのは、「生きるのがしんどい」と思う被害者たちの孤独な心につけこんだ容疑者だ。しかし、追い詰められながらも心が揺れていた被害者たちが、すがるようにして自分の思いを打ち明けられるのがネットのSNSだけだったのではないか、またそこで親身なふりをして接近してきたのは容疑者だけだったのではないかということについても、考えてみる必要がある。古くからある「いのちの電話」など、自殺願望を持った人たちのための相談窓口はいくつもあるが、それには行き着かず、不特定多数が見るSNSに最も大切な心の問題を無防備に書いてしまう若者たちが後を絶たない、という現実に私たちはどう対処すべきなのか。今や日本でも3000万人以上が利用すると言われるツイッターを目視で監視し、自殺をほのめかす人にはしかるべき担当者がアプローチする、などという方法は現実的ではない。
だとしたら、AIを使って監視をし、該当者を有人の相談窓口に誘導するといった仕組みを作るほうがまだ有効な可能性があるが、「死にたい」とつぶやく人の心にAIの呼びかけがはたして届くものか。私はやや懐疑的であるが、そうも言ってはいられない。「若者の孤独を救うのは誰か」。いつの時代も変わらない問題が、SNS時代にまた浮上してきた。
なぜSNSに「#死にたい」気持ちを吐露してしまうのか?
(医師)
2017/11/10