日本経済にとっての最適化は、どこにあるのか。経営の在り方を最適化するためには、何をどうすればいいのか。そんなことが論議の焦点になったりします。そもそも、最適とは何でしょう。最適化された状態とは、どのような状態のことをいうのでしょうか。
このような話題との関係で、何かと話題になるのが、「全体最適」と「部分最適」の関係です。部分最適を足し算しても、全体最適になるとは限りません。例えば、災害時に備えて個別家庭で生活必需品を備蓄するのは、実に合理的な行動です。最適行動だといえます。ですが、全ての家庭が同じことをやると、何が起こるでしょう。
ご明察の通りです。日本中の家庭が物資の備蓄に走れば、世の中全体が物資不足に陥ってしまいます。つまり、個別家庭という「部分」にとっての最適対応を合算しても、世の中という「全体」にとっての最適状況には到達しない。そういうことです。このような関係のことを、「合成の誤謬(ごびゅう)」と言います。
部分最適を足し上げる作業が、ここで言う「合成」です。それをいくらやっても、正解に達しない。つまり、間違ってしまう。だから「誤謬」が発生するわけです。誤謬とは、すなわち「誤り」です。
「合成の誤謬」問題には、大いに注意が必要です。ただ、このところ筆者が気になっているのは、むしろ、これとは逆の問題です。言わば「解体の誤謬」です。こんな言い方は、筆者の勝手な表現です。ですが、どうしても、この問題が気になります。要は、全体が最適なら部分はどうでもいいのか、という問題です。
日本経済全体としてみれば、とても豊かで、景気も調子がいいようにみえる。しかしながら、それは、あくまでも、ごく一部の快調さが平均値を引き上げているからに過ぎない。個別的にみれば、そこには貧困にあえぐ人々の姿がある。このようなことでいいのでしょうか。
本当に重要なのは、実は全体最適でも部分最適でもないのだと思います。目指すべきは、全員最適でしょう。誰もが、自分にとって最適な状態を手に入れることができる。そのような経済社会をどう形成するか。どうすれば、それを実現することができるのか。そこに目を向ける必要があると思うのです。
もちろん、全員の最適が同じものである必要はありません。そうであるはずもありません。多様な人々にとっての多様な最適を、どう確保していくのか。誰もが、それを真剣に考える必要がある。政策は、殊の外それを真剣に考えるべきなのだと考えるところです。