終末論が生まれるワケ
キリスト教には古くから、〝再臨(さいりん)〟という考え方がありました。立場によって様々な捉え方があるのですが、ざっくりと、最大公約数をお伝えします。
再臨というのは、イエス・キリスト(救世主イエスという意味です)が、世界の終わりの日に〝再〟びこの世に〝臨〟む、ということです。十字架刑に処され、殺害されたイエスが、世界を救い、神の国を打ち立てるために、天から地上へ戻ってくる。そこで、善人は永遠の生命を得るが、逆に悪人は厳しい裁きを受けて、永遠の苦悩に追いやられる……という感じです。最後の審判、ということばで知っている人も、いるかもしれませんね。
そう、再臨も、終末論と呼ばれる、〝終末〟にかかわる信仰の一種なのです。
キリスト教以外の一神教であるユダヤ教とイスラム教にも、それぞれの終末論があります。なぜ、そのようなものが求められたのでしょうか。
こんな想像をしてみてください。片方に、神のことばを信じ、神が定めた決まり(律法といいます)を真面目に守って生きている人たちがいるとします。もう片方に、神なんか信じず、欲望のまま、好き放題に生きている人たちがいるとします。真面目な人たちは、何をやってもうまくいきません。天災や飢饉が発生したり、感染症が大流行したり。不真面目な人たちには、そのようなことは起こりません。その上、不真面目な人たちが、真面目な人たちを襲って領地を奪い、彼らを奴隷にしたとしましょう。
これは、わかりやすくするために単純化した、かなり極端な想像です。こんなに酷いことは滅多に起こらないかもしれません。だとしても、どれだけ真面目にやっても報われないことがありますし、不真面目でもなぜか物事が都合よく進むことって、ありますよね。真面目な人たちは、〝今すぐ神があらわれて、この苦境から脱する手助けをしてほしい〟と望むはずです。でももし、祈りが届かず、神が助けてくれなかったら、どのようにして辛い状況を耐えしのげばよいでしょうか。
今はあらわれないけれど、〝終末〟に、さいごのさいごに、きっと神があらわれて、圧倒的な変化が生じるに違いない。そのタイミングで、真面目に神を信じて生きた人間と、そうではない人間が区別され、正しい者には幸福が、正しくない者には不幸が、きちんと振り分けられるはずだ。このように信じることで、なんとか自分を納得させるのではないでしょうか。
〝絶望〟についての回で取り上げた、「ヨブ記」のことも思い出してください。多くの人が、正しいはずの行いや生き方が報われないと、深刻な悩みにとらえられます。心の中で何度も、〝ナゼだ!?〟と叫びます。わたしも、母の病気で困り果てた際には、〝もしも神様がいるなら……〟と、時々考えることがありました。信仰心なんて、まったく持っていなかったにもかかわらずです。たぶん人間って、正義にすごく敏感な生き物なんですよね。この〝ナゼだ!?〟に答えるために、人間が作り出した、スケールの大きい物語。それが終末論なのだと思います。
※1
藤田直哉+ele-king編集部監修『日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか――漫画、アニメ、音楽に観る「世界の終わり」』 Pヴァインを参考にしました。

※2
五島勉『ノストラダムスの大予言』祥伝社 この本については、元になったノストラダムスの著作の不適切な解釈や、誤った翻訳など、様々な問題点が指摘されていますので、注意が必要です。

※3
大阪朝日新聞の1918年8月26日付夕刊の記事です。大阪朝日新聞社長が襲撃されるなど、大問題に発展しました。「白虹(はっこう)事件」と呼ばれるこの出来事は、その後日本という国が第二次世界大戦に向かっていく、重大なターニングポイントでした。この出来事をきっかけに、新聞が政府や軍部の圧力に屈する場面が増え、戦争の歯止めとしての機能を失っていったのです。

※4
鈴木範久『内村鑑三日録 1918-1919 再臨運動』教文館 131頁

※5
「余がキリストの再臨に就て信ぜざる事共」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店)47頁のことばを、わたしなりにかみ砕きました。

※6
「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店) 59頁
