絶望から、再び運動へ
ようやく、準備が整いました。ここからは内村さんと「再臨運動」のかかわりを、具体的に見ていきましょう。
ジャーナリストとしての活動が減り、自分の雑誌を舞台に、『聖書』研究に打ち込んでいた内村さん。そんな内村さんが、講演のために全国を旅する、めまぐるしい活動に飛び込んだのです。講演は白熱し、毎回何百人、時には何千人もの聴衆が、再臨の話題に真剣に耳を傾けたそうです。第3回で触れた正宗白鳥も20年ぶりに講演会場に足を運び、内村さんの話の立派さに感動したことを書き残しています。※4
さて、内村さんの「再臨運動」のポイントを、一言でわたしなりにまとめると、〝待つことが大事〟となります。おだやかで、常識的ですよね。でも、世の中の盛り上がりと、いまいち噛み合っていない感じがしませんか。この時の内村さんには、運動にかけた熱量とは対照的な、冷めた面がありました。
それがよくあらわれているのが、予言にたいする態度です。
終末論は、〝それはいつ起こるのか〟という興味をかならずかき立てます。たとえば、わたしの子ども時代のノストラダムスブームがあれほど盛り上がったのは、1999年という、具体的な日時が示されていたからこそです。『聖書』に書かれている内容を自分たちの現実に当てはめて、未来を予想するのは、珍しいことではありませんでした。若い頃の内村さんも、『聖書』を読み、日本の使命を思い描いていました。これはキリスト教だけではなく、他の様々な宗教にも当てはまります。「再臨運動」でも、内村さんと一緒に行動していた他の宗教家は、差し迫った再臨のタイミングを予想していました。
ところが、内村さんは予想や予言を、はっきり否定していました。
〝自分はキリストの再臨を信じる。とはいっても、再臨を信じる他の人たちと、完全に同じように信じているわけではない。たとえば自分は、キリストが何年何月何日と、時日を決めて再臨するとは信じない〟※5 このように言い切って、いつキリストがあらわれるのかと興奮している人々から、距離を取っていたのです。一生懸命活動しながらも、ブームに完全には乗り切れない、という感じです。いったい、どうしてでしょうか。
戦争勃発を知った1914年7月末の時点で、すでに内村さんは、激しく動揺していました。その後の数日間は「信仰に関する大なる試錬の時であった」、と振り返っています。※6 1917年には、さらなる衝撃が加わります。アメリカの参戦です。内村さんはアメリカに、強い思い入れを持っていました。若い頃のアメリカ留学で出会った友人や先生とのあたたかい交流。その思い出が、人生のピンチを乗り越えるための、大切なエネルギー源だったのです。だからこそ、アメリカが戦争に歯止めをかける、最後の砦になってくれるのではないか。そんな希望を、抱いていたのでしょう。そのため、アメリカ参戦のニュースは、ことばで言いあらわせないほどのショックを、内村さんに与えたのです。
〝模範的なキリスト教国だったはずのアメリカでさえ、こうなった。キリスト教徒であろうがなかろうが、人間にやれることなんて、もう何もないんだ……〟こんな絶望的な気持に染まり、平和の宗教としてのキリスト教をいよいよ諦めそうになった状態から、「再臨運動」ははじまったのです。でもだからこそ、一般的な平和運動にはない、独特な色合いと深みを、帯びていました。
集団で何かを主張するタイプの運動を捨てたはずの内村さんの、最後の思い切ったチャレンジ。次回は、その真の意味を見届けましょう。
※1
藤田直哉+ele-king編集部監修『日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか――漫画、アニメ、音楽に観る「世界の終わり」』 Pヴァインを参考にしました。

※2
五島勉『ノストラダムスの大予言』祥伝社 この本については、元になったノストラダムスの著作の不適切な解釈や、誤った翻訳など、様々な問題点が指摘されていますので、注意が必要です。

※3
大阪朝日新聞の1918年8月26日付夕刊の記事です。大阪朝日新聞社長が襲撃されるなど、大問題に発展しました。「白虹(はっこう)事件」と呼ばれるこの出来事は、その後日本という国が第二次世界大戦に向かっていく、重大なターニングポイントでした。この出来事をきっかけに、新聞が政府や軍部の圧力に屈する場面が増え、戦争の歯止めとしての機能を失っていったのです。

※4
鈴木範久『内村鑑三日録 1918-1919 再臨運動』教文館 131頁

※5
「余がキリストの再臨に就て信ぜざる事共」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店)47頁のことばを、わたしなりにかみ砕きました。

※6
「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店) 59頁
