墓地に暮らすジュリアンは、ハイスクールに進学し、ゆくゆくは大学へ進むことを夢見ながら、いじめを乗り越え、勉強に励んでいた。が、物価高の中、生活がますます苦しくなる家族の姿に心を痛め、大学進学に迷いを抱くようになる。働いて稼ぐほうが家族のためになるのでは、と思い始めた彼女に、奨学金担当のソーシャルワーカーと私たちは、本当の意味で家族の将来を考えるなら進学すべきではないかと問いかけ、学費は奨学金でカバーすることを提案する。そして、ジュリアンはついに、私立短大のホスピタリティ(接客)&レストランサービスのコースへの進学を決意した。
張りつめた空気
最初は、キャンパスライフを楽しんでいる様子ばかりが綴られた、フェイスブックでのやりとりだった。が、短大1年目の後半に移るにつれて、メッセージが送られてくる頻度自体が減ってきた。よほど忙しいのだろう。
ジュリアンは、入学前からファストフード店で働いていた。大学が始まってからは、昼間授業があるため、同じアルバイトに夕方から深夜にかけて入っていた。日によっては、朝の6時、7時から夜中0時まで、授業とバイトに追われる生活だ。硬い墓石の上で眠り、休むまもなく動き回る姿を想像すると、私にはそれがほとんど苦行に思えた。だが、彼女にとっては、家族と自分の未来のために不可欠な挑戦なのだ。
「なかなか近況が伝えられなくて、ごめんなさい。でも心配しないでください。私は必ず、奨学金を出してくださっている皆さんの期待に応え、ベストを尽くします」
年末にそんなメッセージが届き、それ以来、こちらから送った新年のあいさつにも返事がないままに、時が過ぎていった。
2016年3月、いつもならマニラに飛ぶ時期だが、毎年私たちのNGOが実施しているマニラへのスタディツアーが中止になったため、夏になってから行くことにした。ちょうどジュリアンの短大も6月から2年目が始まるので、そのほうが初年度の話をじっくり聞けるかもしれない。
4月になり、とりあえずまたフェイスブックで様子を尋ねてみると、大学が春休みだからか、すぐに返信が来た。
「こんにちは。学校のことですが、1年目はそこそこよい成績を修めることができました。最高点は1なのですが、私の成績表はほとんどが2で、残りは1です」
成績表は5段階で、1が最高、5が最低(落第点)のようだ。1と2ばかりだとしたら、過酷な状況のもとで、ずいぶんがんばっていると言えるだろう。
「2年目もきちんと勉強して、確実に卒業します。むろん、バイトとの時間調整と管理は大変ですが、昨年度よりもうまくできるよう、がんばります。私のことを無条件に応援し、奨学金を出してくださっている皆さんに、私は来年きちんと卒業証書をもらえるよう、最善を尽くすとお伝えください」
できすぎなくらい立派なメッセージを読みながら、私は夏に会うのが楽しみになってきた。
7月初め、私たちはワクワク、ドキドキしながら、いつもの墓地に足を踏み入れた。見かける人の数からして、どうも住民数が大幅に増加している感じがする。墓地管理事務所によれば、7年前の6倍に当たる約300世帯が暮らしているという。物価高が続くなか、さらに多くの人たちが流れ込んできたようだ。
前日ジュリアンと電話で約束した時間に家へ行くと、そこにはいつもの和やかな感じとは打って変わって、どことなく張りつめた空気に包まれた家族がいた。
「実はジュネルが、地方の建設現場で働いて帰ってきてから、どうも様子がおかしいんです。時々幻覚を見るようで、ささいなことで突然、怒り出してモノを投げたり、夜中に、怖いから、と私のそばに寝に来たり、時にはウチのモノを盗んで売ってしまったり。先日も、ジュリアンの服を勝手に持って行ってしまったんです」
私たちの顔を見るなり、家の前にいたフロリサさんが堰(せき)を切ったように、話し始める。そんな状況がもう数カ月間、続いているという。ジュネルはすでに21歳。体も大きく、立派な男だから、もし暴力を振るうようなことがあれば、家族はどうしようもないだろう。だが、それ以上に気になったのは、彼の表情や振る舞いが、私たちが出会った当時、子どもの頃とあまり変わらないということだ。むしろ、より幼い感じにすら見える。
以前はひとつ屋根の下に暮らしていた5人家族だが、今はジュネルだけが、すぐ横の墓石の上に板や布でカプセルホテルのような小さな部屋を作って、一人寝起きしている。どうやらフロリサさんは、彼が家族に内緒で薬物を手に入れて使っているのではないかと、疑っているようだった。
「今、ドゥテルテ大統領が麻薬撲滅作戦をやっていて、ドラッグユーザーを捕まえたり、殺したりしているから、心配なんです。あの子から目が離せません」
2016年6月末に就任したドゥテルテ大統領の政策のことを気にしているのだ。話をしているところへ、20歳になり一段ときれいになったジュリアンが現れ、私たちにあいさつをすると、一緒に母親の心配事に耳を傾ける。フロリサさんは、
「ジュネルのことがあって、ほとんど家を離れられないんです」
と、とにかく不安げだ。無理もない。現地紙『フィリピン・デイリー・インクワイヤー 』によると、ドゥテルテ大統領就任から一週間あまりの間に、麻薬の密売人、常用者、そういう人が多い地域に住む者などが、犯罪者としてすでに100人も殺されていた。メディアでは、無抵抗な者までが警官に撃ち殺されたという事実が問題視され、麻薬売買に闇でつながっている警察関係者が、自分たちに不利な証言をされることを恐れて下っ端を暗殺しているという噂や、「作戦の成果」を示すために無関係な人間を殺しているといった話まであった。その一方で、墓地周辺でも、役人と警察が地区ごとに、麻薬密売人や常用者の摘発と自首の奨励を進めていた。いずれにしても、麻薬に関わっていれば、何らかの形で罰せられるのは時間の問題だった。その運命がジュネルにも及ぶことを、母親は恐れているようだった。
●少女の弱音
心の内に溜め込んでいたものを出し切ったフロリサさんは、ジュリアンに大学での様子を話すよう促してから、用事を片付けに家の中へと消えた。私はジュリアンに、フロリサさんが話しているような状況下で勉強を続けるのは、これまで以上に大変ではないかと聞いてみた。すると、一度も弱音を吐いたことのない少女が、この時ばかりは率直な気持ちを漏らした。
「ジュネルがあんな感じなので、私は母に、夏休み(4~5月)の間、二人で働いてお金を貯めて、早くどこかに部屋を借りてここを離れようと提案しました。母は以前、近くの食堂で働いたことがあるので、そこに雇ってもらえるよう、掛け合うことを勧めたんです。でも、夏休み中はそこのウチの子どもたちが店を手伝うから雇ってはもらえないだろう、と言われました」
フロリサさんは恐らく、ジュネルを独りにしたくないために、そう言ったのだろう。
「でも、私は今でも時々、夢を見るんです。自分がこの家を離れて暮らしている夢を。大学とアルバイトで疲れて家に帰った時、母とジュネルがケンカしたり、煩わしいことがあったりすると、それに巻き込まれるのが本当に嫌になってしまう……」
ジュリアンの言葉は、彼女が現在、私たちの想像を超える厳しい局面に立たされていることを示唆していた。家族が一番大切、が口癖だった少女に、家族と離れてでも平穏な時間を持ちたい、と思わせる現実が、そこにあるのだ。
どうやって、それを乗り越えればいいのか。私には、すぐにできるアドバイスが思い浮かばなかった。とりあえず、少しでも彼女の気が楽になるような言葉をかけるしかない。
「ジュネルが何か打ち込めるものを見つけて、今のような生活から抜け出せるような手を、NGOの人たちにも相談してみるわね。で、もしそれでもダメで、あなたが大学を卒業するためにはどうしてもいったん、独立して生活することが必要なら、その時は相談してちょうだい。必ず応援するから。わかる?」
そう顔をのぞき込むと、注意深く話に耳を傾けていたジュリアンが、何か意を決したかのように、
「はい。わかりました」
と、微笑み返した。