地域協同組合「無茶々園」は、美しい石垣の段々畑が連なる山と海に囲まれた、愛媛県西予市明浜町(人口約2800)に拠点を置く。協同組合や株式会社など、形式の異なる地域の事業組織をまとめた「地域協同組合」として活動している。その組合員は、農業・漁業生産者、会社従業員など、様々。多様な人たちを受け入れながら成長してきた、無茶々園の運動の中にある「社会的連帯経済」を探る。
競争するより人と環境
「みかん農家が生き延びるには、全国の農家と競争するよりも、健康や環境を考えた農業をやるほうがええんやないかと」
無茶々園の創立メンバーで元代表の片山元治さん(74)は、すべてはそこから始まったと語る。片山さんたち若い農業後継者の小さなグループが、1974年、お寺の伊予柑園を借りて実験園「無茶々園」を設立。みかん(伊予柑)の無農薬栽培を始めた。「江戸時代にはやってたから、やれんことはないんやないかと考えて」と片山さん。それは、当時反響を呼んでいた有吉佐和子の朝日新聞の連載「複合汚染」やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読み、農薬などによる環境汚染や人体への影響を知った若者たちの挑戦だった。その背景には、みかん農家の危機があった。
明浜町では、半農半漁だった暮らしが、1961年、急速な経済成長を目指す政府の方針に従って商品作物「みかん」だけを作る農業生活へと変わる。西日本の段々畑が広がる海岸部は、どこも同じ状況だった。ところが約10年後、みかんの木がようやく大きく育った頃に干ばつ、そして供給過剰によるみかんの市場価格の暴落が起き、農家は危機的状況に追い込まれる。それでも農協は、売れるみかんを作るために農薬や化学肥料などの使用を推奨し、「全国の農家に負けるな、競争せよ」と煽り続けたという。そのやり方に疑問を抱いた片山さんたちは、無農薬栽培に取り組んだのだ。
ところが、最初は見かけの悪いみかんばかりで、売れなかった。「対策を考えるために集まっては、農協へのツケで買った酒を飲んでたんで、借金ばかり増えた」と、笑う片山さん。そうして迎えた3年目、愛媛県松山市の自然食品店でみかんを高く買ってもらえたことが突破口となり、有機農業が徐々に軌道に乗り始める。
そこで販路の拡大のために、東京にある「日本有機農業研究会(JOAA)」を訪ねた片山さんを待ち受けていたのは、予想外の反応だった。
「食べ物は、ただ売ればいいというもんじゃない! と怒られて。生産者と消費者が互いに顔の見える付き合いで理解し合う、今で言う“産直”が大切だと教えられ、その考えも悪くないなと思った」
片山さんたちは、生産者と消費者の相互理解に基づく有機農業を模索し始める。そして、生協を通じた都市の消費者とのつながりを築き、生産者自身が適正な価格を決める産直販売を開始。1988年には、無茶々園に参加するみかん農家も64名に増えていた。
そんななか、無茶々園の「社員第1号」となったのが、現在、株式会社地域法人「無茶々園」の代表取締役を務める大津清次さん(58)だ。小学生の頃に親が離農した大津さんは、20歳で独自に運送業を立ち上げ、みかんなどを運ぶ仕事をしていた。顧客の1人であった片山さんに、無茶々園で働くよう誘われ、「専務にしてくれるなら」と引き受ける。
「やるならそれくらいの覚悟が必要だと思っていました」
と、大津さん。まだ事業の組織化が十分に進んでいない中、最初の数年間はあらゆる仕事をこなさなければならず大変だったが、片山さんたちと共に、無茶々園がほかの地域や人々とつながり成長していくプロセスに関わることは、楽しかったと振り返る。
「地元のためやから。でも、片山さんの言っていることは最初、何それ? という感じだった。今になってようやく、“先を読んでいた”とわかりました」
こうして無茶々園は、1989年、農事組合法人となる。