短大のホスピタリティ&レストラン・サービスコースに入ったジュリアンは、学生生活を楽しみ、ファストフード店でのアルバイトにも励んでいた。ところが、まもなく兄ジュネルが挙動不審となり、家庭内に不穏な空気が流れ始める。そんななか、バイトで家計と大学での実習費用を賄う生活に追われるジュリアンは、精神的に追い詰められていく。やがて、あらぬ言いがかりをつけられ、バイトをやめることになり、妹も不登校に陥ってしまう。
短大卒業まであと3カ月あまり。私たちは、家族の問題に悩まされるジュリアンを訪ね、無事に卒業できるよう、可能な限りサポートしたいと考えた。
墓地では相変わらず、母親のフロリサさんの兄姉が近所に暮らし、フロリサさんは七つの墓石の管理と近隣で働く労働者の服の洗濯を請け負って、日銭を稼いでいる。弟カルロは、近所のおつかいを引き受けるなどして家計を助けたり、遊んだり。妹クラリスは、どうやら担任教師とウマが合わず、怒られてばかりいることに嫌気が差して、学校に行かなくなったようだった。だが、昨年から様子がおかしかったジュネルの姿は、なぜかそこになかった。
「実は、私が警察に頼んで、刑務所に入れてもらったんです」
予想もしない言葉が、フロリサさんの口から飛び出す。そう、彼女は薬物を使用している気配のある息子が、ドゥテルテ政権の麻薬撲滅作戦下で拷問あるいは殺害されることを恐れ、自主的に刑務所に入れたほうが安全だと考えたのだ。
「それに、家族だけでなく、他人にまで迷惑をかけるようになる前にそうしたほうが、本人のためにもいいと思ったんです」
後ろめたさの漂う口調が、苦渋の決断を物語る。
皮肉なことに、ジュリアンとフロリサさんは、ジュネルが家にいた8カ月前よりも落ち着いて見えた。一人だけ別居したいと思うほど追い詰められていたジュリアンも、今は学業に専念できているようだ。
孝行娘の本音
私たちは今回テレビ局の取材も兼ねて来たことで、通訳付きでジュリアンの話を聞く機会を得た。そこで初めて、彼女がなぜここまで進学にこだわり、努力し続けることができたのかを、本人の口から具体的に聞くことができた。
「以前、墓地に住んでいた従姉のように親しかった少女が、ここで長くは暮らしたくない、と話しているのを聞いたんです。彼女は働きながらハイスクールを出て、仕事につき、ついに墓地を去りました。その姿をみて、私もいつかそうなりたいと思い始めたんです」
私たちはその「従姉のような少女」に会ったことはないが、一人の先輩の背中を追って、彼女はここまで踏ん張り続けたのだと知った。まさに私たちが、墓地の子どもたちのためにジュリアンに演じてほしいと考えている役割を、その少女が担っていた。
私たちにはあと二つ、この機会に聞きたいことがあった。一つは、大学での友だち関係だ。ハイスクール1年生の頃に受けたいじめの話から想像すると、比較的裕福な家庭の出身者が大半を占める大学での生活においても、周りとのギャップや人間関係に悩みがあっても不思議ではない。
「友だちはいますが、あまり個人的な話はしません。墓地で生活していることも話していません。向こうから聞かれれば話しますが、誰も聞かないので……」
住んでいる世界が違うという違和感は、やはり拭えないようだ。
「私はふだん、普通の学生と同じように振る舞っています。悩んでいることがあっても、大学の友だちには話しません。わかってもらえない気がするので……。時々、思うんです。この子たちの人生は、私よりずっと楽なものではないだろうかって」
以前、フェイスブックのメッセージで、「本当はもっともっといろいろとお話ししたいんですが、うまく表現できなくて」と言っていたのは、こうした思いのことだったのかもしれない。
この話を聞いた数日後、私たちは、授業の後、大学の友人たちとファストフード店でお茶をするジュリアンに会いに行った。どんな若者たちと一緒に学んでいるのだろう。
そこで見たのは、いかにも経済的に恵まれた家庭の出らしく、ひたすら学生生活を楽しんでいる若い男女の姿だった。そのうちの何人かは、4年コースの学生だ。
「将来は豪華客船の船上レストランのシェフになりたいです」
「まずは経験を積んで、ゆくゆくはホテルの経営者になりたいです」
語られる夢も、家族を養う話ではなく、自己実現のプランだ。聞けば現在親からもらっている小遣いも、月に5000ペソ(約1万円)だという。ジュリアンが必死にバイトで稼いでいる金額と、大して変わらない。ジュリアンが、彼らはもっと楽な人生を送っている、と想像する気持ちが、わかる。
彼らと私たちが話をしている間、ジュリアンは終始、ただ黙ってニコニコしていた。その彼女について尋ねると、皆が口を揃えて、「いい子だよ」「とてもおとなしいわ」と答えた。キャンパスでも張りつめた毎日を送るジュリアンの姿が、目に浮かぶ。
翌々日、大学の実習クラスをのぞかせてもらう。と、ジュリアンとクラスメートたちのギャップが、さらに鮮明になった。
その日、教室では、「バー・マネジメント」の授業が行われていた。カクテル作りやワインサービスを学ぶものだ。ジュリアンに奨学金を出す日本人グループのメンバーの参観に、講師は張り切って、ジュリアンと同級生の男子二人に、それぞれ、まずカクテルを3種類作るよう、指示する。最初は、ジュリアンだ。
ボトルをクルクル回すパフォーマンスが入ったカクテル作りは、ジュリアンをいつにも増して緊張させた。ボトルを落とすことこそなかったが、シェイカーに果汁を注ぐ手が細かく震えている。シェイクする表情も硬い。大丈夫だろうか。
続いてカクテル・パフォーマンスをしたのは、ファストフード店で話を聞いた学生の一人の、陽気な青年だ。音楽に合わせて腰をくねくねさせながら、カクテル作りを進める。大げさな表情と動きが、教室内の笑いを誘う。
次はワインサービス。今度もジュリアンは緊張が解けず、客として席に着くよう促された私の前に据えられたワイングラスに、震える手でワインを流し込んだ。そもそもワインを出すようなレストランに、彼女は入ったこともないだろう。もう一人の男子学生は、そつなくサーブする。
一連のデモンストレーションが終わると、講師が私と篠田に向かって、クラスメート全員の前で、
「ミス・ジュリアン・リヤッグは、すでにすべての授業を好成績でクリアしましたよ」
と、声をかけてくれた。
「サンキュー・ベリー・マッチ」
とお礼を述べて、教室を出る。
すぐ後から出てきたジュリアンも、やっと肩の力が抜けたのか、少し気取った明るい口調で「カクテルのお味はいかがでしたか?」と、私に尋ねる。そういうところは、シャイな少女時代とは違う。なかなか接客業が身に付いてきたようだ。
「三つのうちの、最後のが一番気に入ったわ」
と言うと、
「オー、サンキュー」
と、ニッコリ。正直、私にはどれも甘すぎたが、あの緊張ぶりを見たら、細かいことは言えない。とりあえず自信を持ってもらわなければ。
母娘の夢
夕方、墓地に行くと、フロリサさんが、ご飯やおかずをビニール袋に詰めていた。明日、刑務所にいる家族に面会に行く知人に、ジュネルへの差し入れを頼むという。息子を刑務所に送り届けてから1カ月以上経つが、まだ一度しか面会に行っていないのだと、こぼす。
「十分な差し入れや、(刑務所内で売っているものが買えるように)渡せるお金がないと、行きづらいんです」
そううなだれる彼女に、今度一緒に行きましょう、と告げると、わずかに頬を緩めた。