福島の「帰還困難区域」とその周辺に生きる人々を描いたルポルタージュ『白い土地』を2020年10月に刊行した朝日新聞記者・ルポライターの三浦英之さんと、富山市議会議員の政務活動費不正使用による辞任ドミノを描いたドキュメンタリー映画『はりぼて』の共同監督五百旗頭幸男さんが、2020年末に富山で対談した。中央のジャーナリズムが硬直化する今、ともに地方から発信を続ける記者として、メディアへの切迫した危機感を語り合った。
メディアのあり方を問い直す『はりぼて』
三浦 五百旗頭さんが共同監督として制作した映画『はりぼて』は、富山市議会による政務活動費の不正使用という政治の腐敗を浮き彫りにしたドキュメンタリーですが、同時にメディアのあり方を鋭く問うものでした。メディアは今、過分な「分かりやすさ」を求められたり、過剰な「リスクコントロール」を要求されたりして、がんじがらめの状態に陥っていると感じます。首相会見などでも事前に質問が渡っていたり、追加質問ができなかったりする。そんな中央の状況を見ていると、富山市議会の不正を徹底的に追及した『はりぼて』における取材は、今地方だからこそできたんじゃないかと思いました。
五百旗頭 テレビ業界では、たしかにローカル局のほうが組織的なしがらみが少なくて、自由度も高いので、やりやすいと思います。ただ、分かりやすく単純な構図に落とし込もうとするという点では、ローカル局もキー局と同じです。多くのテレビ業界の人たちは、キー局で今までやってきた作り方が正しい、と盲信しています。でも、分かりやすくしないといけないという「ルール」なんてないはずなんです。今回、チューリップテレビで制作したドキュメンタリー映画『はりぼて』では、できる限り単純化せず、いろいろな見方を提示しようとしました。たとえば、不正をした議員たちを単純に悪として描くのではなく、彼ら議員の人間臭さを描いたんです。もちろん不正をすることはダメですが、彼らの人間性まですべて否定できるわけではない。ああいう人間臭さがあるから、私たちも今まで不正を許してしまっていたところがあるわけです。そうした複雑な関係性を、テレビでも描いていかなければならないと感じています。
官邸を真似しはじめた地方
三浦 東京では今、首相官邸の記者会見のあり方が問題視されていますが、その影響は地方にも徐々に出はじめています。たとえば、2019年には僕が担当する福島県の大熊町に常磐自動車道のインターチェンジができたのですが、その開通式を取材した際、現場で建設費用を尋ねても、広報担当者は答えようとしない。「答える必要はありません」なんて言うんです。国民の税金を使って造ったインターチェンジなのに、その建設費用を担当者が示さないなんて、以前では考えられないことです。僕と毎日新聞の記者が「公費を投入しているのに建設費用を明かさないのはおかしい」と抗議をすると、広報担当者は「なんで答えなきゃいけないんですか」と居直り、その場で取材が打ち切られてしまった。自分たちにとって不都合なことは答えなくてもいい、という中央の誤った認識が、今や地方にまで広がってしまっていると感じました。情報公開も、最近は特にひどくて、隠さなくていいところまで全部が黒塗りにされてしまっています。
五百旗頭 富山市議会のドミノ辞職が起こったあとに、当時のJNN系列のローカル局がそれぞれの地方議会に同じような不正がないか情報公開請求をしたんです。そうしたら、大半が黒塗りにされた状態で出てきたと聞きました。黒塗りしないで情報を公開した富山市議会は、その点についてはまだ健全だったのかもしれません。
三浦 一方で、地方には東京とは違った不自由さがあるとも感じます。特に地元メディアは県警とか県庁の役人との関係がものすごく近くて、影響力も大きい。たとえば、大熊町では、当時の現職町長が自分の敷地の上に町役場を建てるという前代未聞なことが起きていました。当然、地元メディアの記者たちはそれをみんな知っているのに、報じようとはしない。僕がそれを『白い土地』の中で明かすと、同業者からは「よく書けましたね」なんて言われるんです。
五百旗頭 それはあり得ないですね……。本来ならば、役場を自分の土地に建てたのが分かった時点で、もうアウトです。「メディアが知っていても報じない」ということは今頻繁に起きていて、田中角栄の金脈問題のときと似ているんじゃないかと思っています。フリージャーナリストの立花隆さんが1974年に文藝春秋でこの問題について発表したとき、大手メディアの中では「そんなのみんな知ってるよ」と達観して無関心を装っていた。大手メディアが知っているのに書かないということが、当時も、今も、いろんな問題を引き起こしています。