三浦 原子力発電は電力企業に巨額の利益を生み出す半面、必ず過酷事故のリスクがつきまといます。アメリカのスリーマイル島でもそうでしたし、チェルノブイリでもやはりそうでした。けれども、日本の電力会社はそれらの前例を示した上で、最後に安心材料として必ず、「でも、日本の原発は安全です」と言うんですよね。日本は技術力が高く、当時は世界の先進国と言われていた。僕たちは、多重防護や、避難計画といった具体的な根拠ではなく、「日本の」という自尊心をくすぐられる言葉によって、どこかで安心させられていたような気がしています。
「帰れない村」になった津島
三浦 石井さんがかつて暮らしていたこの大屋敷は原発から27〜28キロ離れていますよね。本来であれば、十分に安全な距離が保たれているはずの地域ですが、原発事故が起きた当時、普段は山から海へ吹き下ろす風が、そのときに限って原発のある海側から山側に向かって吹いてしまったため、放射性物質が風に乗って北西方向へと運ばれた。そして、2011年3月15日の夕方から翌朝にかけて、この津島の一帯に雪が降った。その雪に大量の放射性物質が含まれていたと言われています。
石井 そうですね。ただ、線量計を身に着けていた津島診療所の先生によると、ずっと建物の中にいたにもかかわらず、震災後から雪が降る前の15日までの4日間に、800マイクロシーベルトも被爆していたそうなんです。だから、津島が高線量になったのは、雪が降ったことだけが原因ではないはずです。いずれにしても、放射性物質は、匂いもしないし、色もないですから、当時は危険なのかどうかよくわかりませんでした。
三浦 浪江町は3月12日、原発から10キロ圏内の避難者を津島へ移送することを決定します。町民たちとともに津島へ避難してきた浪江町の馬場有町長は、私の取材に「子どもたちは外で縄跳びをやっていた」と明かしています。
石井 浪江町の中心部から8000~1万人が津島へ避難しに来ていました。子どもたちは狭い避難所にいられないから、外で大勢遊んでいたんです。津島診療所では待合室に入りきれない人が外に並んでいて、200メートルの行列をつくっていました。
私は避難所に炊き出しに行き、雪が降っていて寒かったので、避難所にいる人たちにせめて温かいおつゆでもと思い、自分の畑にあった野菜を持って行きました。それが汚染された野菜だったなんて、その時には知らなかったんです。政府は津島が高線量であることを把握していながら、危険であることさえ知らせてくれませんでした。
三浦 原発事故後、ご自宅の放射線量が毎時4マイクロシーベルト以上あったそうですね。国が長期目標とする年間の追加被曝線量は毎時0.23マイクロシーベルトですから、その17倍以上です。
石井 私は3月15日に子どもたちの住む福島市に避難したあと、実家がある千葉や那須の「青少年自然の家」に一時避難をして、いまは福島市に住んでいます。最近では津島には年に3回ほど墓参りで帰ったりするくらいです。夏に帰ってきたときには、玄関や土間が苔で真っ青でした。板の間にはすっかりカビが生えていて、家の中にいると目や鼻が痛くなってきました。家の前は草が茫々に生い茂っていて、アカザという雑草が2階の上まで伸びていたんですよ。倒そうとしても、とても硬くて抜くことができないので、鉈(なた)で切りました。悔しいし、情けないし、東電に対する怒りもある。いろいろな思いがごちゃ混ぜになってこみ上げてきます。
故郷の原状回復を訴える津島裁判
三浦 全国では原子力災害で被害を受けた人たちによる訴訟が続いています。津島でも、住民の約半分の700人弱が原告となって訴訟を起こしました。石井さんはその原告団の副団長でもあります。津島訴訟には、大きく二つの特色があります。一つは、現時点で津島全域が帰還困難区域になっているので、全員が家に帰れない状態であること。もう一つは、国の責任を認めさせたり、賠償金を求めたりする訴訟に加えて、故郷をきれいに元に戻してくれと訴えていることです。裁判で「原状回復」という要求が認められるのは、極めて難しいことだと思いますが、それをあえて求めた理由は何ですか。
石井 放射能汚染なので、即座に元に戻せるわけではないことはわかっています。でも汚れたままにはさせないぞ、という意思をどうしても示したかったのです。私たちは、自分たちの意思で故郷を出て行ったわけではありません。この土地を離れざるをえなかったわけです。責任がある者に対して、元に戻してくれというのは、当然の要求だと私は思います。何年かかったとしても、きちんと故郷を戻してほしい。それが原告団の一番の願いです。