ひんやりとした風が、比叡山の裾野を渡ってゆきます。この季節は、紅葉が一気に進むので油断大敵。雑木林の木々の一つひとつをよく観察していないと、見頃のチャンスを逃してしまいます。比良山(ひらさん)の峰が色づき始めると、いよいよ秋本番。まるで幕が下りるように次第に山麓(さんろく)へと赤みが強くなっていきます。そして、11月中下旬の頃になると、紅葉は里に降りてきて宴もたけなわ、アトリエも、全て鮮やかな暖色の木々に包まれます。でも、こんなに明るい落葉樹の森が、放置された状態の薄暗いヒノキ林だったと言ったら信じてもらえるでしょうか。
実は、雑木林づくりはアトリエを建てる時に始まり、早いもので30年が過ぎました。琵琶湖西岸の仰木(おおぎ)の田園の一角に仕事場を設けようと決めたのは、自宅のある市街地から撮影のためにせっせと棚田に通っていた頃です。自宅と棚田は車で20分ぐらいの距離なのですが、もっと棚田の中に居座りたいと思うようになったのがきっかけでした。写真を撮るために訪れるのではなく、農地の中に身を置いて、里山の生きものたちの仲間入りができないだろうかと思い始めたのです。
私はそのことを、私の活動を理解してくれていた仰木のとあるおじいちゃんに話しました。当時、その方は村の連合会長であり、名士でもありました。思いを伝えたところ、おじいちゃんは「よし、わかった」と言ってくれたのですが、その後、進展がないまま、何年か経ちました。やはり仕事場づくりは、夢で終わるのだろうなと諦めていた時、突然おじいちゃんから電話がありました。「土地を売りたい人がいるからすぐ来なさい」という言葉を聞いた私は、やりかけの仕事をほったらかして、鉄砲玉のように仰木に車を走らせました。
おじいちゃんに案内された土地は、緩やかな棚田の上にありました。しかし、外から見ると黒々としたヒノキ林です。土手の草は伸び放題で、敷地の中に入ることが困難な状態です。それでも、何とか草をかき分けて斜面を駆け上り、ヒノキ林の中に入りました。林と言っても、間伐がなされていないので、もやしのようなヒノキが空間を埋め尽くし、息が詰まるようなブッシュ(茂み)です。しかし、目が慣れてくると、林内には緩やかな傾斜があり、南側に向かって広がっていることがわかりました。反対方向の北側には、木立の隙間から私の好きな比良山が見え隠れしています。
これは、神様からのプレゼントかもしれない。そんな予感で心が高ぶりました。その日、荒れたヒノキ林の中に身を置きながら、仕事場づくりの構想が既に私の頭の中で回り始めていました。
数日後、おじいちゃんから土地の持ち主を紹介してもらい、いよいよアトリエ建設に向かって歩み始めたのです。ただし、その道程は遠く、ヒノキの伐採、植林、道づくり、井戸の設置など、課題が山積み。落ち着くまでに数年の歳月が必要だったことは、言うまでもありません。
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