原告の方々にお話をうかがいながら思ったのは、「自分の身体に生殖能力が備わっていること自体に強烈な違和感がある」「生殖能力を取り除かないと、自分らしい身体だと思えない」という感情は、たとえば「男性になりたい」という欲求とはまったく別のものだということです。それが何かということは今の段階ではわからないのですが、おそらく、まだ名前が付けられていない欲求なのだと思います。
「後悔するかもしれない」「悪用のおそれ」等の懸念について
――不妊手術を受けると、後になってやはり子どもが欲しいと思っても、生殖能力を取り戻すことはきわめて困難だといいます。このような取り返しのつかない選択については制限は必要だ、という考え方もあるようですが、その点についてはどうお考えですか。
まず、「不妊手術は取り返しがつかない」ということについてですが、再手術で卵管を繋ぎ直し生殖能力を回復するハードルが非常に高いのは確かです。一方、自然妊娠にこだわらなければ、体外受精で妊娠する可能性はあり、仮に「やはり子どもが欲しい」と思い直したとしても、不妊治療によってその希望をかなえられる道は残されています。つまり「取り返しがつかない」という前提そのものが間違っているのです。
それをおいても、「取り返しがつかないから制限されるべきだ」という意見に対しては明確に反論できます。憲法学では、「取り返しのつかないこと」に対しては権利が制限される(自己決定権の限界)という伝統的な考え方があり、これはたとえば尊厳死のケースなどにあてはめられます。しかし、女性が子どもを産めなくなることは死と同列に論じることでしょうか。女性は初経が来る前は生殖能力がなく、いずれ閉経して妊娠できなくなるということを考えれば、生殖能力がなくなることイコール女性として死ぬわけではないはずです。
今回の訴訟で、国は海外の文献の翻訳書をもとに、「例外なく、多くの女性は不妊手術を受けたことを後悔している」と反論してきました。しかし実はこの翻訳書は原文を誤読していて、非常に問題です。それ以上に、長い間、自分の身体に生殖能力があることについて悩み苦しんだ末、成人女性が確信をもって決断したことに対し、「いつか後悔するかもしれないから、やめておきなさい」と止めるのは、パターナリズム(家父長主義)でしかありません。たとえ後悔したとしても、それは選択した本人の問題であって、完全に自己責任であるにもかかわらず、なぜ他人が口を出す権利があると思うのでしょうか。
また、「いつか後悔するかもしれない」選択は制限されるべきだというなら、子どもを産んだことを後悔する女性の選択はどうなのでしょう。たとえば、2022年に刊行された『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト著、鹿田昌美訳、新潮社)という本には、多くの「後悔している母親」たちの声が紹介されています。取り返しがつかないという意味では、子どもを産むことも同じなのに、「産まない」選択に対してだけ制限が課される合理的な理由は見当たりません。
「産まない」選択に対するハードルが男女で不均衡であり、生殖に関する男性の自己決定権は女性よりずっと尊重されていることも、大きな問題です。母体保護法では、男性は配偶者(妻)が「母体の生命」か「母体の健康」を損なう場合に限り、不妊手術を受けることができるとされています。
しかし医療現場の実態を見ると、法律に則って運用されているとは思えません。男性の不妊手術はいわゆるパイプカット(精管結紮術)で、左右の精管をそれぞれ2カ所ずつ縛り、その間を切断することで、精液に精子が混ざらないようにしますが、ネットで検索すると、女性の不妊手術を行う産婦人科は容易に見つからないのに対し、パイプカットを行うクリニックはたくさん出てきます。この点ひとつとっても、男女の間でギャップがあるわけです。また施術にあたり、配偶者がいる場合は同意を求めるところが多いようですが、本当に配偶者の「母体の生命」や「母体の健康」が損なわれるかどうかは確認されません。
――今回の訴訟に対し、どのような反応が寄せられたか教えてください。
実は、炎上などのネガティブな反応は、予想していたほど起こりませんでした。ポジティブに受け止められているというより、単に世間の理解が追いついていないのだと思います。
それでも、「生殖能力への違和感を理由にそれを取り除くことが認められるなら、自分に右手があることに違和感があって、右手を切り落としたいという人も認めるのか」というような意見はありました。
しかし、これはまったくナンセンスです。まず、健康な右手を切り落とす手術が医学的に有効なものとして認められていないのに対し、不妊手術は既に世界中で行われている医療です。両者を同列に論じるのは、議論の前提自体が間違っています。
もう一つ言うなら、日本では儒教的な価値観の名残りか、「親からもらった身体」を損なうことへの抵抗感も強いように思います。しかし、そうした考え方で個人の権利を制限することは、法的には意味をなしません。
――もし、日本で不妊手術が要件や罰則なしに行われるようになったら、本人の意思ではないのに不妊手術を受けさせられるような、「悪用」のおそれはないでしょうか。
かつて優生保護法のもと、障害者などに対して、本人の意思を無視した強制的な不妊手術が行われたことは事実ですから、同様のことが起こるのではないかという懸念があることは理解できます。実際、一般の人から、法改正後には性産業等で不妊手術が「悪用」されるのではないかという意見が寄せられたこともあります。しかし、それはあくまで運用上の問題であって、法律の建て付けとはまったく別の話です。日本国憲法第13条では、公共の福祉に反しない限り、個人の権利は尊重されます。「悪用のおそれ」は公共の福祉とは言えず、今回の原告の方たちのように、非常に切実で確信的な決定に基づいて不妊手術を受けようとしている女性たちに対し、「おそれ」程度でその権利を制限できる根拠があるとは思えません。
たとえば米国では何の要件もなく不妊手術を受けられますが、一定の熟慮期間を設ける等、本当に当人の意思で手術を受けようと思っているかどうかを慎重に見極めています。このような医療側の工夫は、日本でもできるはずです。
少子化なのに産まないのは「わがまま」?
――「妊娠したくない」「産みたくない」と女性たちが表立って言いにくい背景には、「日本は少子化なのに、そんなことを言うのはわがままだと思われるのでは」「不妊症で産みたくても産めない人がいるのに、産める自分が産みたくないと言ってもいいのか」といった気持ちもあるのではないでしょうか。