たとえば配偶者の同意が得られず、中絶を諦めて出産した方にとって、既に生まれている子どものことを考えると、中絶する権利を訴える原告になるのは、非常にセンシティブです。また、なんとか相手の同意を得て中絶をしたという方でも、そのことによる心の傷はとても深く、原告になってもいいという方は今のところ見つかっていません。20年ほど前に中絶したという女性が数名、手を挙げてくださったのですが、そこまで時間が経過していると時効の問題があるので、やむなくお断りしました。
「原告になってくれる方が見つかるまで待っていると、いつ訴訟を起こせるかわからない」と途方に暮れる中で出会ったのが、今回の裁判の原告のひとりである梶谷風音(かじや・かざね)さんです。梶谷さんは以前から配偶者同意の問題について声を上げてきた方で、幾度かお話しするうち、梶谷さんが長年、生殖能力のある自分の身体に強い違和感を抱き続け、不妊手術を切実に望んできたこと、しかし、国内では母体保護法が障壁となって手術を受けられない状態におかれていることを知りました。リプロダクティブ・ヘルス・アンド・ライツについて関心を持っているつもりの私たちでしたが、恥ずかしながら、そのとき初めて、不妊手術を受けるには、配偶者同意や生命危険要件といった規定が設けられていることを学びました。
改めて、不妊手術に関する法律の建て付けを見直してみると、課されている要件は明らかに不合理だと気づきました。胎児の権利や、その父親になる人の権利も問題となり得る中絶と違い、不妊手術の場合はまだ胎児もその父親も存在しません。完全に女性単体の自己決定権で済むものに、配偶者同意やその他の要件を定めて厳しく制限している現状は、きわめて違憲性が高いと考えられます。梶谷さん自身が、「いつか自分が原告になって、不妊手術の問題を訴えたい」と考えていたことに加え、他の原告になってくれそうな方々を集めてくれたおかげで、訴訟条件を整えることができました。
「母体保護法」の名称が表す「女性=母体」という前提
――条件が整った段階から実際の訴訟に至るまで、どのようなステップがあったのでしょうか。
実は、私たち弁護団は最初、「妊娠したくない、だから不妊手術を受けたい」という梶谷さんたちの主張について、あまりピンときていませんでした。弁護団のメンバーは男性3人、女性3人で構成されていますが、男性たちはもとより、私も含めた女性陣も、なかなか「腹に落ちない」ところがあったんです。
もちろん、理屈では「不妊手術に要件が課されるのはおかしい」とわかりますし、私自身、子どもがいない人生を選んでいるので、「妊娠したくない」という気持ちには共感できます。ただ、他にも避妊の手段が存在するなかで、そこから「不妊手術を受けたい」とまで思う切実さに対しては、心から納得できていない部分がありました。
それは、今回の訴訟のネーミングを決めるまでの議論にも表れていたと思います。最初に上がった案の中には「ママにならないことにした私の訴訟」というものもありました。このときの私たちは、不妊手術をめぐる問題を「子どもを持たない」という女性のライフスタイルの尊重として捉えていたわけです。しかし、母体保護法が成立された経緯を検証していく過程で「これは単なるライフスタイルの選択の話ではない」ということが浮かび上がってきました。
母体保護法のルーツは、1940年につくられた国民優生法にあります。この時代の日本は「産めよ増やせよ」の時代で、国民優生法の目的は、「悪性」の遺伝子の増加を防止するという優生思想の実現を図りつつ、避妊手術や中絶を規制し戦時下での人口増加を支えるというものでした。この法律により、「優生手術」(優生的理由に基づく不妊手術のこと)以外の不妊手術は原則禁止、違反した場合は刑罰を受けるなど、厳しく制限されたのです。優生手術を受ける場合でも、当時の日本の法律では、女性の意思は配偶者または父母の支配下にあるとされていましたから、実施にあたっては配偶者同意要件が定められ、配偶者がいない30歳未満の女性は両親の同意が必要とされました。
戦後、人口過剰になった日本は一転して人口抑制政策をとることになります。1948年成立の優生保護法では、優生手術の目的を「不良な子孫の出生を防止する」として国民優生法の考え方を引き継いだだけではなく、「母体の生命健康を保護」という項目を新たに設けました。その結果、「質」を保ちながら人口を減らすために不妊手術が悪用され、障害者に対する強制優生手術(強制不妊手術)が行われました。ちなみに、この法律は議員立法で、全会一致の賛成で成立しています。戦後になっても、国家が出産を管理するという思想が社会に生き続けていたということでしょう。
しかし1970年代後半から、優生保護法の前提にある優生思想や障害者差別に対する批判が高まってきます。特に、1994年にエジプトのカイロで開催された国連国際人口開発会議において強い非難を浴びたことで、1996年、優生保護法は母体保護法に改正され、優生手術も「不妊手術」という名称に変わりました。ところが、見直しが行われたのは優生思想的規定のみで、他の条文はそのまま据え置かれたのです。強制不妊手術も、不妊手術に対する厳しい制限も、「産む・産まない」の自己決定権が奪われているという点では同じであり、片方だけが改正されるというのは理にかないません。
こうした過程をたどっていくと、国家にとって女性の生殖能力は国力に関わる重大な関心事であり、これをいかに管理するかが、一人ひとりの女性の自由や権利よりも上位におかれている、それが日本の現状であることが見えてきます。そもそも「母体保護法」という名称自体が問題だと言えるでしょう。妊娠経験がないまま不妊手術を受けたい女性はまだ「母体」ではないにもかかわらず、「母体保護法」の適用対象にされています。この法律によって否応なく「女性=母体」とされてしまっているわけです。
――そこから「わたしの体は“母体”じゃない」という、今回の訴訟の名前が決まっていったのですね。
堕胎罪
妊娠中の女性が中絶をすると1年以下の懲役に処される。中絶を行った施術者も罰せられる。1948年成立の優生保護法で例外規定が設けられて一部の中絶が可能になり、現行の母体保護法にも引き継がれた。