「スポーツが得意なのは男性」「女子選手のプレーは迫力がない」など、スポーツには男女差を当然とする固定観念がついて回る。しかし、スポーツとジェンダーを研究する岡田桂・立命館大学教授によれば、「現代のスポーツの多くはそもそも男性を前提に作られたもの」だという。スポーツが男性優位となっていった過程や、女性のスポーツ参加を阻んできた原因は何かなど、スポーツとジェンダーの関係についてうかがった。
岡田桂・立命館大学教授
なぜスポーツは「男性が有利」なのか
―― 一般的に「スポーツは男性の方が得意」というイメージがあり、女性の方が体育やスポーツが嫌いになる傾向が強いと言われます。このような違いは、なぜ生まれているのでしょうか。
そのことを考えるにあたり、まず学校で行われる体力テストについて取り上げてみたいと思います。年齢区分によって多少違いますが、体力テストの8項目は、握力、上体起こし、反復横とび、シャトルランやソフトボール投げなど、筋力がスコアに直結しやすいものが多く、例外は柔軟性を測る長座体前屈ぐらいです。女子は男子よりも相対的に柔軟性には優れていますが、筋肉量が少ないので、この8項目を測っていたのでは体力テストの結果が伸びません。また、「ソフトボール投げ」が典型的ですが、体力テストで重視されるのは、実際の日常生活で必要とされる体の能力というより、スポーツで有利になる特別な動きです。このように、女子は体力テストや体育の授業を通して「男子は女子より体力があり、スポーツが得意だ」ということを常に確認させられることになり、スポーツや体育に苦手意識を持ちやすくなります。体力テストで、筋力と柔軟性を4項目ずつ測るようにするだけでも、スコアの男女差は縮まるでしょう。
教育現場ではよく「文武両道」と言われますが、「武」のスポーツがより重視される傾向が強まっており、部活等でスポーツ経験がある学生が男女共に増えていると感じます。もちろん、スポーツをやること自体は良いことですし、その機会が男性だけではなく女性にも開かれてきたこと自体はポジティブに捉えるべきでしょう。一方、スポーツをやればやるほど「男子の方が上」という意識が一般化しやすくなり、スポーツにもともと備わっている男性優位な構造を肯定したり強化したりしてしまうという問題も出てきます。
――スポーツはもともと男性優位だという点をもう少し詳しく教えてください。
現在行われているスポーツの多くは、冷涼で湿度が低い気候で長時間動くことのできる地域を前提に、ヨーロッパ系の若い白人男性が優位に立ちやすい競技が選りすぐられて発展してきました。そのため、今日に至るまで女性はそもそも不公平な土俵の上で競わされてきたと言えます。
スポーツの成り立ちは近代、具体的には19世紀頃のイギリスのパブリックスクールに遡ります。パブリックスクールでは、小学校高学年頃から高校生くらいまでの上流階級の男子が全寮制の学校で共同生活をしますが、当時、彼らは自分で働く必要がなく、学ぶ目的を見出せなかったため、パブリックスクールは非常に荒れた環境でした。そこで、彼らに責任感や規律、リーダーシップを身につけさせようと、体を使って競い合うチームスポーツが活用されたのです。つまり、成立当初のスポーツでは女性の存在が想定されておらず、その後も長い時間をかけて、男性が有利になる条件が整えられていきました。
また、19世紀と言えば、世界の覇権を握っていた大英帝国の影響力を背景に、英語やアングロサクソン文化の価値観がいわばグローバル・スタンダードになっていった時代です。スポーツもそのひとつであり、世界各地の学校で体育や運動系部活動が行われるようになったのも、元をたどれば、パブリックスクールでスポーツが重視されたこととつながっています。
こうしたそもそもの不平等が十分に知られていないことが、現在のスポーツや体育におけるジェンダー格差を温存させていると言えるでしょう。スポーツをする若い世代にこのことを理解してもらうために活用してほしいのは、保健体育の授業です。現状、体育では実技がメインになっていますが、まず座学でスポーツの成り立ちや男性が有利になる仕組みなど、スポーツとジェンダーにまつわる話をしてから、実技で「男子のほうが足が速い子が多いのは、筋力が関係しているから」「でも、ダンスだと男女差が出にくいんだな」などと子どもたちが確認できるようにするとよいと思います。
本来、保健体育で教える内容に性やジェンダーも入っているはずなのですが、公教育では保守的な傾向が強まったこともあって性教育を行いにくく、教員養成課程でもそうした知識を学ぶ機会がほとんどないため、教師の側も教えることができないという悪循環が見られます。また、保健体育の教員養成課程自体、ジェンダーや性について保守的な傾向が強いのです。しかし、保健体育の教員こそ、そうしたことを学ぶ必要があると言えます。
進化論が変えた「男らしさ」の意味
――数年前の箱根駅伝で「男だろ!」と選手を叱咤激励した監督がいましたが、スポーツは「男らしさ」とよく結び付けられます。これにも近代の価値観が関係しているのでしょうか。
スポーツと男らしさの結び付きには、19世紀半ばに提示されたダーウィンの進化論が大きく関係しています。それ以前の時代、イギリスでは男性の理想像は身体的なものよりも、むしろ気高い精神やキリスト教徒としての敬虔さといった、女性にも達成可能な内面の高潔さに求められていました。それが進化論の登場以降、適者生存の世界で淘汰されないために優れた資質を次世代に受け継ぐこと、それを可能とする健康な肉体が重視されるようになったのです。近代は戦争の時代でもありましたから、勝つためには兵士として戦える、強くたくましい国民を大勢産み増やしてしていかないといけないという理屈で、生殖能力、ひいては異性愛規範と強靭な肉体をセットで備えていることが理想の男性像とされました。スポーツは、その理想を作るものとして発達していったのです。
そうした状況で、スポーツの世界では異性愛の男性同士の強い絆、いわゆるホモソーシャルな関係性が育まれることになりました。その関係性の中には当然、女性は入れませんし、同性愛男性などのセクシュアルマイノリティも排除されます。そして、スポーツにおける「男らしさ」「異性愛」を強調する性の理想は、近代以降にスポーツが影響力を強めていく中で、世界に浸透していきました。
――スポーツが苦手で、「男らしさ」にあてはまらず苦しむ男性もいるのではないでしょうか。
男性の中でも、スポーツで活躍し、いわゆる男らしさを身につけて、ヒエラルキーの上位に行けるのはごく一部です。スポーツが苦手だったり、身体がたくましくなかったりすることで、求められる「男らしさ」とのギャップに苦しんできた男性も多いでしょう。男性というカテゴリーの中にいるのに男らしさの基準を達成できない、そこから生まれる疎外感は、元から排除されている女性以上に強いという研究もあります。