女性のスポーツ参加を阻んでいた「思い込み」
――1896年に開催された第1回近代オリンピックでは女性の参加は禁止され、その後、少しずついくつかの競技で女性選手が出場できるようになりました。しかし、1972年のミュンヘン大会でも、女性選手の割合はわずか14.8%でした。長い間、女性がスポーツ競技に参加できなかった理由はどこにあったのでしょうか。
近代スポーツが発達した19世紀から20世紀初めは、先ほども話に出た進化論の影響で、「女性がスポーツをやり過ぎると体が男性化する」といった荒唐無稽な説も大真面目に唱えられていた時代でした。そうした理由から、テニスや馬術など、比較的早い段階から女子参加が認められた競技の多くは、「女性らしさを損なわない」とされたものです。
その他の、女性に向いていない、あるいは女性の身体には負担がかかりすぎて危険だと考えられていた「過酷な」競技は、長く男子選手しか参加できませんでした。しかし、こうした懸念が非科学的な思い込みに過ぎなかったことは、現在の多岐にわたる種目での女子選手の活躍が証明しています。たとえばマラソンや長距離走は、「あんな過酷なレースは男性にしかできない」などと言われていた時代が長かったのですが、今ではむしろ女性が活躍しやすい競技だと認識されています。
要するに、実際に女性にできるかできないかという観点よりも、男らしさを発揮するスポーツという場は男性だけのものであってほしい、そこに女性に入ってきてほしくないという男性側の思惑によって、参加種目が取捨選択されていたと言えるでしょう。
アーチェリーに参加する女子選手(第4回ロンドンオリンピック、1908年)
――オリンピックの全競技に女性が参加できるようになったのは2012年ロンドン大会、参加選手が男女同数になったのは2024年パリ大会で、現在ではIOC(国際オリンピック委員会)も男女平等の推進を謳っています。このような変化はなぜ起こったのでしょうか。
スポーツをやりたい女性たちが、排除されながらも、粘り強く挑戦を続けてきたことはもちろんですが、女性のスポーツ参加が一般化する大きな歴史的転換点は、1972年、アメリカで「タイトルナイン(Title IX)」という法律が成立したことでした。これはアメリカの公的高等教育機関における性差別の禁止を定めたもので、当時の公民権運動やフェミニズムの流れの後押しもあり、体育及び学校で行われるスポーツの女性参加が一気に進みました。そしてこの動きは、世界のスポーツ界に大きなインパクトを与えていくことになります。
タイトルナインのポイントは、学内外で行われる公的なスポーツ大会などの参加者数における男女の機会平等はもちろん、コーチなど指導者の雇用に関しても男女平等にすべきだと、罰則付きで定めたことで、その結果、大学の体育学部で学ぶ女性が飛躍的に増えました。かつての体育学部や体育大学は「男性が学ぶところ」というイメージが非常に強く、日本でも早稲田大学は共学だったにもかかわらず、教育学部体育学専修は男性しか受け入れていませんでした。1980年代後半にスポーツ科学部に改組されてから、ようやく女性が学べるようになったのです。指導者のジェンダーバランスはまだ不均衡な状態ではありますが、世界各国で「女性も指導者になれる」という道が生まれたのは、タイトルナインの影響が非常に大きかったと思います。
(後編「スポーツは『男女二分法』を乗り越えることができるのか」〈2025年7月15日公開予定〉では、スポーツが「変わる」可能性をうかがいます)