SNS上をパトロールするなら、少女を狙う加害男性たちに警告して取り締まったらいいではないか。なぜ、そうしないのか。被害者に対しあれこれ言う前に、必要なのは加害者に加害させないことではないだろうか。
簡単に当事者に答えを求めるのはダメ
私は被害者を責めることはもとより、「どうしてそうなったの?」と被害者に疑問を投げ付けること、それ自体が暴力であり二次加害になると考える。先日の番組でも進行確認の際には、「被害者の背景は?」「どうして被害に遭ってしまったのか?」「被害に巻き込まれないためには?」などと被害者にばかり目を向けられていたため、「問題は加害者だ。被害者を責めるのでなく、加害者に目を向け加害者を抑制するにはどうしたらいいかを考える必要がある」と話した。すると「では、加害を生まないためにはどうしたらいいの?」と聞かれたが、日本ではその議論に至ることすら難しい。
その段階にすら至っていないのが現状であることを見つめるべきだ。簡単に答えを出そうとしたり、被害者に答えを求めようとすることにも暴力性を感じた。これまでも被害者はずっと声を上げ続けていて、社会がそれを軽んじて扱ってきたのに、今まさに声を上げ始めたかのように語ることは問題だ。社会のほうが、ようやくその声の大事さに気付きましたという話ではないか。
私は講演先でよく、「自分にできることはありますか? 現状を変えるためにどうしたらいいですか?」と聞かれる。簡単に、当事者に答えを求めないでほしい。それを考えることから始めてほしい。自分ごととして真剣に考えている人は、「こんな支援はどう?」と聞いてくれる。そうすれば、次につながる。
「メークをしたらお奇麗ですね」の何が問題か
冒頭の「メークをしたら更にお奇麗ですね」という発言を私のツイッターで拡散したところ、〈「可愛いね」とほめられて気持ち悪い…っていう感覚、自分だけかと思ってました。相手に「ほめてるのに~」と言われても嫌なんだから仕方ないけど、そう感じてしまう自分を責めてみたり。〉とリプライしてきた人がいた。
これも女性たちが、言われ続けてきたことだろう。こうした発言をする男性は、自分が相手の容姿を評価できる立場にあると自然に思っていることがまず問題だ。自分よりも若く、自分に言い返したり、意見をしたりしないコントロールできる相手だと思っているからセクハラし、「ほめてるのに」という一言は、そんな自分は悪くないとの言い訳である。
「可愛いね」などと言われて「気持ち悪い」と思うのは、言われた人がその相手から尊重されておらず、尊厳が傷つけられていると直感的に分かるからではないだろうか。その気持ちを大切にしてほしい。自分を責める必要はない。
「被害に遭わないためにどうしたらいいか?」ではなく、加害者について私たちが何を勘違いしているのか、加害者はどういう相手や状況につけ込んで手を出すのか、そのプロセスを明らかにして正しく認識することが必要だ。その認識が隅々まで広まれば加害が起きそうになった時、起きた時、すぐに「それダメですよ」と「当然でしょう」という顔をして言える人が増える。そういう社会にならなければ、加害は減らない。
そんな社会になったら生きづらい(自分が相手を支配する自由がなくなる)だろうと考える加害者は、「なんでもセクハラと言われちゃう」と予防線を張り、「セクハラしちゃったかも」と自覚しているふりをして更なる圧力を掛けた挙句、「うっかり本音が」「綺麗だと思ったから」などと言い訳をする。
それは決して「うっかり」やってしまったことではなく、加害者たちは状況をしっかり判断して、相手を見てやっていることを私たちが認識しなくてはならない。
加害者には「NO」を突き付ける力を
更に加害者は、軽んじていた相手が実は影響力ある人だと気付いた時、自分の立場が危うくなった時などに「謝っている」「反省している」と手の平を返した態度をとることもある。しかし、それは自分を守るためにしているだけで、やってしまったことを理解して、誠意を込めて謝ったり反省したりしているのとは全く違う。なので周囲の人も、うっかりだまされて「謝れるいい人」「謝っているんだから許してあげたら」などと、加害者を庇うようなことを言ってはいけない。それは二次加害だし、加害者にとって都合のいい状況を作ることにつながる。
とくに性差別が背景に潜んでいるような状況では、加害的な発言をした人物が自己防衛のためにとった態度に周囲の人が同情し、庇ってしまうようなことは残念ながらよくある。だから私たちは勉強する必要がある。たとえ周囲の人にそのようなことを言われても、「おかしいな」「嫌だな」「気持ち悪いな」と感じた時は、その気持ちを大切にしていい。
一人ひとりの無理解から、女性たちは何重にも被害に遭い、傷つけられてきた。繰り返し問題を指摘し続けないといけないのはつらいが、問題を整理して言葉にしていきたい。「あの時、もっとこうできたらよかった」と自分を責めてしまうこともあるけれど、差別や暴力の構造を理解することは、そんな自分を許し、傷つきから回復するためにも大切で、加害者に「NO」を突き付ける力にもなる。