辺野古に行く前日、勝連(かつれん)城跡でやっていた「世界のウチナンチュー」という企画展を観た。貧困にあえぐ沖縄の人々が、本土をはじめ世界各地へと移民し、出稼ぎに行った史実が展示されていて、とても学びのある内容だった。貧しい農家の少女たちが、那覇の遊郭へ売られていったことにも触れられていた。しかし、その説明は「農村の少女たちが首里・那覇あたりに下女奉公や遊郭に流れていった」という一文だけだった。一方で、移民となって苦労した男たちの話は、一人ひとりの経験がパネルで展示されていた。移民者の苦労談も大切だが、貧困や女性差別という社会構造の中で、自らの性を売らざるを得なかった女性たちの話が「流れていった」の一言で片付けられていたのが印象的だった。
政府は沖縄の人々を踏みつけるようなことを続けているが、基地のある社会では女性や子どもの人権は軽んじられる傾向にある。性売買の被害に遭う少女や女性たちについて、「自ら好きでやっているのだろう」「無知な子どもたちが気軽に足を踏み入れているのだろう」と語りながら、女性を買うことを正当化する人は多い。力のある者が権力や金で女性を支配し、性暴力をふるい、自分の物のように扱うことは戦後77年経った今でも続いているのだ。
辺野古に行った日、私はその足で沖縄県庁前で開催されたフラワーデモ(性暴力の根絶を掲げるデモ)にも参加した。沖縄で共に怒り、痛みを分かち合い、時に涙の時間を共有しながらも声を上げ続けるみなさんと時間を過ごさせてもらった。私たちが集い、語り合い、声を上げることを嘲笑う人はこれからもいるだろう。それでもこうして時間を共にして、つながり、怒りや痛みを分かち合うことは現状を変える力になる。この輪を広げていけば、「痛いものは痛い! 踏みつけるな! と言っていいんだ」と思う人や、「あれって暴力だったんだ」と気付ける人も増えていくだろう。
抗議者を「過激」扱いする攻撃の手口
米兵に母親を殺され、基地建設に反対する住民が書いた看板を、「汚い文字」とリポートしたひろゆき氏。この地では米兵によって家族や友人を殺されたり、レイプされたりという経験が多くの人にある。だからこそ「沖縄にこれ以上基地を作らせない!」「二度と戦争をさせない!」「これ以上誰も殺させないし、これ以上レイプさせない!」といった想いで闘い続けているのに、そんなみなさんのことを「カジュアルだ」などと鼻で笑う人たちに、私は腹の底から怒りが湧いてくる。人が殺されているのに、性暴力をふるわれ続けているのに、どうしてそんなことが言えるのかと……。
沖縄の人々はこんな痛みを、これ以上の痛みを、これまでもずっとずっと受け続け、それでも立ち上がり、声を上げ続け、行動し続けてきた。そのことを思うと、こうした運動を冷笑し、沖縄に基地を押し付け、沖縄の人々の生活や尊厳を奪おうとする人たちを黙らせるには、この問題に無関心を装おうとする本土の人たちの目を開かせるには、ただこの運動を続けること――行動し続けるしかないと、私も辺野古で座り込んだ。
私もColaboの活動の中で、日々さまざまな攻撃を受けている。デマや誹謗中傷、殺害予告やレイプ予告も日常茶飯事だ。そんな時、今日も行動を続ける沖縄のみなさんの闘いを思い出し、辺野古の新基地建設反対運動の中でも歌われ続けてきた「座り込めここへ」や「沖縄今こそ立ち上がろう」をよく口ずさんでいる。沖縄のみなさんの存在や闘いは、私たちにも力を与えている。
私はSNSなどで、ネトウヨから、人権擁護を謳った支援活動をしている人から、政治家からも「政治的な活動をしている」「過激だ」などと言われることがある。しかし、それらは全て私たちの抗議の声を矮小化するためのものだ。暮らしの中で政治に関わらないことはないし、おかしいのは政治のほうであり、そのことは指摘し続けなければならない。
問題を矮小化しようとする人たち
先日、あるメディアからの取材で「ひろゆき氏の発言の何が問題か?」と聞かれた。内容が事実に反していたり、侮辱的な発言だったりとすべてが問題だったが、それ以前に「辺野古で座り込みする人々を冷笑するためにやってきたこと自体が問題だと思う」と私は返答した。
ひろゆき氏は、自身の発言の影響力を知りつつ「座り込みの定義は?」などと問題の本質から外れたことをあえて言ったり、現地で抗議行動を続ける住民を挑発してマイクまで奪おうとしたりした。そうして怒らせた抗議者の姿を拡散し、さも過激な人たちであるかのように印象付けることや、座り込み抗議の背景から視聴者の興味をそらし、抗議の声や沖縄の民意を小さく見せて問題を矮小化すること、それこそが彼の目的だったのではないか? ひろゆき氏は沖縄への差別意識も隠すことなく発言しているが、基地を沖縄に押し付けてきた政府や本土の責任をないものとしたいのではないか?
踏みつけられている人たちの声を小さなものにしようとする、こうした攻撃は自身の加害者性に向き合わず、構造的な暴力から目を背けたい人の常とう手口だ。昔から権力者たちによって繰り返されてきており、私たちColaboに対しても同様の攻撃は絶えない。今回のことも、そういう効果を見据えた行動なのではないかと私は考えている。そして、そのような人を「論客」として起用してきたメディアの責任も大きいと思う。
相手を尊重しない人との「対話」は困難
しかし、こういう出来事が起きると、弱い立場に置かれている側に「対話」を促す人が少なからずいる。自分たちは中立のつもりなのだろうが、そうした行為は加害している強者側に立つものであることも理解してほしい。対話は互いを尊重する姿勢があって、初めて成り立つ。端から相手を下に見ていたり、自らの正当性を主張するために呼び出して挑発したり、粗探しをしたり、わざと的外れな発言をしたり、事実を歪曲して攻撃したりといったことを繰り返している人との間では対話は成り立たない。
今回、ひろゆき氏の辺野古訪問を企画したインターネットテレビ局のABEMAは、よくそうした番組を制作し、例えばフェミニストを叩くため「対話」を促して呼び出すようなこともやっているので、私は何度依頼があっても出演を断ってきた。
こうした攻撃者による「議論という名のもとの暴力」に惑わされ、冷やかしで辺野古を訪れる人たちも増えている。抗議を続ける人々は、そんな人たちにも誠意ある姿勢を崩さず、「なぜ活動するのか」「何が起きているのか」を丁寧に説明して理解を求めている。しかし、抗議理由などすでに語られ続けてきたことだ。知ろうとしてこなかった、不勉強で無責任な私たちが悪いのに、いつまで声を上げてきた人たちに問題を押し付けるのか、身を削らせるのかと思わざるを得ない。
私たちは、自身の加害者性や当事者性から目を背けたい人の詭弁に惑わされず、構造的な暴力や差別を認識し、それを変えるためにどうしたらよいのかを議論し、みなが問題の当事者として責任のある行動をすべきだ。そうした姿勢もなく、座り込みで抗議する人たちの「やり方」を批判し、「リベラルは排他的だ」「運動のアップデートが必要だ」などと上から目線で主張を繰り広げたNPO理事長も批判の的となっている。自身の加害者性に向き合えないために、「もっとうまくやれ」「そんなんじゃ共感されない」「本気じゃないだろう」「カジュアルだ」などとそれらしく語り、抗議行動をする側に問題があるかのように印象付けることは、沖縄に基地を押し付け、沖縄の人々の暮らしや民意を無視する政府や構造を温存することに加担しかねない。
私たちはそうした構造と、踏みつける側のやり口を知り、考えていかなければならない。