「大吉原展」には、他にも女性に対する目線に背景への理解がないと感じる記載があった。例えば、若くして死んだ遊女について「大酒がたたって」と書かれていた。それを観て、私の隣にいた来場者の若い女性が吹き出すように「プッ。大酒飲み」と笑っていた。
性売買を経験し、アルコール依存症になったり精神疾患になったりする人は少なくない。飲まないとやっていられないほどの厳しい状況の中で、客や周囲に気を配り、愛想を振りまいて性売買している女性たちが今もいる。この遊女も「愛嬌があり」と書かれていた。そのためみんなに愛されていたという記述だったが、その笑顔の奥で女性たちが何を考えていたのか、なぜ「大酒飲み」だったのか、遊郭で亡くなった女性たちがどのような状況で死んでいったのかを知れる展示にはなっていなかった。
国際社会からの人権軽視の指摘によって政府公認だった遊郭が廃止となり、娼妓解放令により、「女性たちの自由意思」という建前で継続された。そのことについて「大吉原展」では、〈江戸時代にあった家のために身売り奉公を受け入れざるを得なかった遊女の境遇への共感や同情、敬意は薄まり、自由意思で身を売る女性に対する世間の厳しいまなざしが強まっていきました〉〈遊女の境遇への共感や同情、敬意は薄まり、反対に自由意志で身を売る女性への厳しいまなざしが強まり、遊女観が変化していきました〉とパネルに2回も書かれていた。
今も生活のため家族のために身売りする少女たちがいるのに、ないものにされているなと思いつつ、「自由意思」の建前で事実上の奴隷制度が継続され、性売買が温存され、それによって多額の利益を得た人々が力を持っていたことや、「自由意思」とされることがいかなる社会的な強制によって維持されてきたかに目を向けることなく、「自由意思で体を売る女性への同情や敬意が厳しい眼差しに変わった」と強調することにも強い問題意識を感じた。
性売買が当たり前となっている日本社会では、このパネル説明を読んだ人たちは「自由意思で体を売っている女性を差別してはならない」「だから、性売買を否定してはならない」と端的に思うだろうと考えるからだ。
性売買女性が差別される背景には、すべての責任を女性に背負わせた政府や業者の手口がある。性売買を女性の「自由意思」によるものとすることによって、店による強制も社会的な強制も、背景にある貧困や買春者による人権侵害もあたかもないように見せかけ、性売買にまつわるすべての問題を女性の「自由意思」を盾にして覆い隠す効果がある。
「自由意思」でやっていることだからと女性に責任を押し付けることで、そうせざるを得なかった状況、性売買に女性を追いやる社会の構造や政府の愚策から目をそらすことができ、「好きで体を売っている」として女性たちが差別される。
今でも性売買で利益を得ている人たちは、「好きでやっている人もいる」と言って、性売買における搾取や暴力の実態から目をそらさせようとし、それが搾取の構造を温存するために大きな効果を生んでいる。問題は「自由意思か、そうでないか」ということではない。性売買がいかに女性に対する暴力であるかを明らかにし、搾取の構造を見つめ、批判することは、その中にいる女性を差別することではない。女性を差別しているのは誰なのか。誰が女性を性売買に追いやり、その責任を女性に負わせているのかを見つめていくことは、女性差別に抗うことである。「大吉原展」ではそうした構造を覆い隠す「日本文化」と、それを支える男社会の圧倒的権力と影響をまざまざと突き付けられた。
Xで「大吉原展」の感想を投稿すると、「美術というのは、あらゆるものを特定の意図を持って『見せる』技術である。その『美術』をもって人権侵害の歴史を華やかさや優美さ等で覆い隠すのは、料理人がその腕でもって毒を美味しく盛るのと同じようなもので、技術の悪用にあたる」というリプライがあった。どういう意図を持って遊女は美しい存在とされ、誰の手によって、どのような背景で、美しく描かれ、記録されたのか。私たちは、そのことこそを見つめる必要があるだろう。そして現代の性搾取とのつながりを考え、この「文化」を乗り越え、つくり変えていきたい。