「大吉原展」で突き付けられた、性搾取の構造を覆い隠す「日本文化」(1)からの続き。
約250年前に江戸幕府公認で設置され、借金に苦しむ女性たちを閉じ込めて性売買が行われてきた吉原遊郭。そうした歴史を「文化」として、絵画等で華々しく紹介する美術展「大吉原展」(主催 : 東京藝術大学、東京新聞、テレビ朝日)が開催前から大きな批判を浴びている。前編では、遊女らを人形のように扱い、男目線で描いた展示に著者が疑問と憤りをぶつけた。
「文化」を支える男たちによって維持され続ける性売買
この「大吉原展」の開催にあたり、学術顧問の田中優子氏(江戸文化研究者、法政大学名誉教授)は記者会見で「吉原はさまざまな芸能や出版を含めた日本文化の集積地、発信地としての性格と、それが売春を基盤としていたという事実の、その両方を同時に理解しなければならない」「そのどちらか一方の理由によって、もう一方の事実が覆い隠されてはならない」「本展覧会は、その両方を直視するための展覧会」などと考えを述べている。しかし実際に私が観覧した限り、展示では「『売春』を基盤としていたという事実」がどのような人たちの力で維持され、文化となったのか、そのことが今の性売買女性たちにどのような影響を与えているのかは扱われていなかった。「買春」を基盤としてこれだけの「文化」が栄えたことの意味や、その「文化」は今も多くの場合、男たちが中心になって担っていて、庶民の、女性たちのものにはなっていないこと、男たちが性売買の維持のためにどのような連帯をし、女性たちがどのように扱われてきたのかを見つめ直す必要がある。
吉原が芸能や出版の中心地になっていたことも紹介されているが、今も芸能や出版と性売買は密接につながっている。芸術、芸能、出版、そのような「文化」とされるものたちが、「文化人」と呼ばれる男たちや一部の金や権力のある人たちによって受け継がれ、そこには性売買がつきものなのも今に至っている。
芸能や美術、芸術界を牛耳っているのは男たちであり、何を美しいと評価するかを決めるのも男たち。秋葉原では芸能としてアイドルグループのステージを楽しんだ後、そのままJKビジネスで生身の少女を買う――そういう形で現代の性売買も広がっていった。少女や女性が芸能で成功するためには性接待をしなければならない、そうした現実も放置されてきた。私も10代の頃、そういう場面をたくさん目にしたし、「女の子が足りないから」と芸人や芸能関係者が集まる飲み会に駆り出され、接待を強要されたこともある。
吉原では今も日本屈指のソープランド街として性売買が行われ、遊郭の名残を感じさせるような「高級店」もある。大阪市西成区の飛田新地(旧飛田遊郭)にも、花魁の格好をした女性がピンクのネオンに照らされて並べて「売られて」いる。「大吉原展」の4つの展示会場のうち、第三会場はまさにその雰囲気で、ピンクのネオンに照らされて遊女の絵が並べられていた。
音声ガイドでは「第三部では吉原の街を体験してみましょう。さて、吉原はすぐそこです」と案内された。この雰囲気に来場者たちは何を思うのか。消費する側の気分を味わうことをエンタメとして楽しめても、その加害者性を自覚できる人は少ないだろう。私たちは、吉原を過去の「二度と出現し得ないもの」としてではなく、今も続くものとして捉える視点で考える必要がある。
男目線で記録され「美しい」と評価される遊女の姿
何を美しいと思うか、何を「文化」とするかは、その時代や地域の習慣や人権意識によって変わってくるはずだ。私は男たちの残した絵を、美しいとは思わなかった。そこに遊女とされた女性たちの声はなく、ひたすら悲しく、むなしかった。
1865年に遺跡調査で有名な外国人男性が来日した際、浅草観音堂(東京都台東区)に花魁の肖像画がかけられているのを見て「日本人は他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしている」と驚愕したというエピソードも展示されていた。それは「買われる」女性に対する差別的な目線からの発言でもあると思われるが、海外では恥ずべきこととされる人権侵害が放置されているのは、今も変わっていない。この展示が、そうした感覚をさらに広げる機会となってしまうのではないかと不安になった。
私には2枚だけ「リアルだ」と感じる絵があった。1枚は河鍋暁斎(かわなべきょうさい)による『吉原遊宴図』で、客の男が遊女の前でよだれを垂らすようなニヤニヤした表情をしている。もう1枚は同じ作者が描いた『薄幸物語』というひどいタイトルの絵で、痩せ衰えた遊女が捨てられ、吉原から追い出され、何もないところで地面に座している。おそらく行くあても身よりもなく、当然お金もなく、もしかしたら病気を抱えているのかもしれない。この絵にはとても共感したが、ひっそりと下の方に小さく展示されていて、この絵を記憶したいと買った図録にも載っていなかった。
客に情を感じ、客との結婚に希望を抱く遊女の絵も複数展示されていたが、その姿は今私たちが夜の新宿で開催している10代女性向けのバスカフェに来て、中年の買春男性と結婚して幸せをつかんだと思い込もうとしている少女たちと重なった。
展示からは、遊女たちに対して「辛い状況でも頑張っていてすごいな」「努力したんだな」ということは感じられるかもしれないが、 女性たちの痛みの部分は男たちの残した「文化」とされる絵や工芸品には映し出されていなかった。当時の女性たちも、そういう姿を晒すことを恥だと思わされていただろうし、それを見せないことを品格だと思い込まされていたのだと思う。でも男たちには見せないところで、女性たちは痛みを言葉にしたり日記を書いたりしていたのではないか。
私は、彼女たちの話を聴きたい、聴こうとしなければと思った。芸術家として、文化人として評価されている男たちには残せなかったものがあるはずだ。声を上げること、本音で話すこと、そんなことができるはずもない時代、きっと多くの遊女たちが、今も性売買の中にいる女性たちと同じ想いをしていたのだろうと思った。男に撮られた写真の向こうでこちらをまっすぐ見つめる女性たちの瞳と目を合わせながら、彼女たちの生きた現実をちゃんと見つめるから、と誓う気持ちになった。
「美」や「自由意思」の名のもとに覆い隠される搾取の構造
この美術展を通して、紹介された「文化」を「美しい」「すごい」と受け取って、そうした感覚が性搾取の構造を温存させうる、ということに無自覚な人が増えるのが怖いと思った。自分は消費する側に立っているのではないかと自問したり、そういう自覚を持たない人たちに、性売買の中にいる女性たちの力強さやかっこ良さだけが男目線で伝わることは危険だ。今では子ども向けの人気アニメですら、遊郭を舞台にそういう印象付けがなされていて、成人式で花魁の姿をしたがる女性も増えている。
そうしたイメージや憧れを社会や女性たちにも植え付けることで、 性売買の中で苦しむ女性たちの声はないものとされ、女性たちが性売買に誘導されやすい社会が再構築されている。性売買の中にいる女性を消費したり、過去のものとして「大吉原展」を楽めるのは、自分は買われる側にはなりえないと安心できる立場にあるからかもしれない。しかし、そのような態度が社会に浸透することは、自身が買われる側になった際にも容易にそのハードルを乗り越えることができるほど、性を買うことに対する心理的、社会的なハードルが低くなる効果を持つ。