マジョリティーに対してマイノリティーの権利を主張すると、そのマイノリティー集団の中で新たなマイノリティーが生まれるという悪循環ですが、これはアイルランドの独立を描いた『麦の穂をゆらす風』(ケン・ローチ監督、2006年)のように、様々なマイノリティーを描く映画や小説での一つの伏線になっています。ミルクの政治活動についていけない長年の恋人のスコットも、彼の元を離れていくことになります。そしてミルクは、悲劇的な最期を迎えることになります。
『BPM』――「沈黙=死」
『ミルク』が自身が政治家になることによって「トップダウン」で社会を変えようとした人物の映画だとしたら、『BPM』(2017年)は市民運動でもって社会を変えようとした「ボトムアップ」の映画です。監督は、自身もゲイの権利運動の経験を持つフランスのロバン・カンピヨ。作品はカンヌ映画祭の最高賞パルムドールを受賞しています。
ゲイの権利と言っても、ここで主題となるのはエイズ患者の支援団体「Act up」とその活動家たちです。「Act up」はもともと1987年にニューヨークで生まれた団体です。今日ではゲイ特有の病気ではないとの理解も進みましたが、80年代にHIV(エイズ)が社会問題となり、当初ホモセクシュアルと結び付けられて理解されたため、ゲイへの偏見や差別が問題になりました。
日本でも血友病患者に非加熱製剤を使用して1000人以上を感染させた薬害エイズ事件が90年代半ばに社会問題となって大きな市民運動が生まれましたが、フランスでも同様の事件が80年代に起きて、政界を巻き込むスキャンダルとなっていたことが映画でも触れられています。ここでも強調されるように、「Act up」は正確にはゲイだけのものではなく、セックスワーカーや麻薬患者、輸血で感染した患者など、様々な感染当事者と支援者の組織で誰しもが会員になれますが、時代背景もあって、その中心はゲイが占めていました。
実態を知るには映画を見るのが一番ですが、「Act up」は非常に過激な抗議運動を繰り広げることで有名になり、その新奇さから少なくない調査研究の対象にもなりました。彼らの常套(じょうとう)手法は「ザップ」と呼ばれる行動で、エイズ啓発のための集まりや団体、抗エイズ薬を作る製薬会社に無断で立ち入り、血を思わせる赤い液体でふくらませた水風船を投げ付け、ホイッスルを鳴らしてスローガンを叫んで責任者を質問攻めにする「ピケッティング」を行い、その後その場で全員が寝そべる「ダイイン」をするというものです(*4)。日常空間の中に人々の戸惑いや困惑を呼び起こす非日常の空間を作り出して、「ここにいるよ」と知らしめるのが「Act Up」が採った戦略でした。デモをすることすら議論の対象となる日本では考えにくいかもしれません。
彼らのスローガンの一つは、「沈黙=死」です。映画では、彼らが高校の授業に乱入して「エイズから守るために」と、コンドームを生徒に配るシーンもあります。校長に「なぜ高校にコンドーム販売機を置かないんだ」と迫り、学校側の「性行為を助長させるから」との答えには、「16歳でセックスしない国なんてどこにあるんだ?」と反論します。日本でもピル解禁が性の乱れにつながるという議論がありましたが、社会の通俗的な道徳観念が、むしろ命を危険に晒すことになると彼らは抗議したのです。
「Act up」は一切の身体的な暴力を禁止していますが、予定調和的な空間を大声や敵対的な態度でかき乱して注目を浴びようとする、社会運動で言うところの「名指しし(Naming)、非難し(Blaming)、訴える(Claiming)」という抗議運動を実践しました(*5)。「ミルク」ではゲイコミュニティーの存在をデモで示していましたが、『BPM』ではデモという「頭数」ではなく、自らの(それも病原体に侵された)身体を使った「強度」によって社会を変えるという手法がフィーチャーされています。それも、自分が不条理な死に直面しているという怒りをぶちまけつつも、その怒りを戦略的に用いることが同時並行で行われる――これはミルクの言うところの「芝居」が、時代を超えて受け継がれているとも言えます。そう、政治とはパフォーマンスであり、パフォーマンスは政治でもあります。
ミルクは「人は希望だけでは生きていけない。しかし希望がなくては生きる価値がない」と言い残しますが、『BPM』がエイズ患者の死とそれへの抵抗という重いテーマを扱いつつも、どこか清々しく、乾いた感じの作風であるのは、彼らの「生きたい」という希望が、パフォーマンスへと昇華される機微が描かれているからでしょう。ミルクの言葉は、『BPM』の作中、死んだ仲間に対して「(彼は)政治的に生きた。愉快で陽気で強気で活動的だった」と言う、はなむけの言葉とも呼応します。政治は仲間にとっての未来を切り開く希望のことでもあります。
もっとも『BPM』でも、『ミルク』に見た「ついていけなさ」の問いが提起されています。これは、セーヌ河畔で「Act Up」の活動家がビラ貼りをしている際に、他のゲイカップルたちに「放っておいてくれ」と言われるシーンとして挿入されています。ショーアップに耐えられず、運動から離れていく活動家も描かれています。
『君の名前で僕を呼んで』――世俗の勝利
最後に紹介するのは、美しい北イタリアの風景と当時ヒットしたユーロポップが流れる『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年)です。ちなみに作品を途中まで監督し、プロデューサーとしてクレジットされている名匠ジェームズ・アイヴォリーは、早い時期にホモセクシュアルを取り上げた『モーリス』(1987年)を世に送り出した監督で、同じくプロデューサーの一人、ハワード・ローゼンマンは『ミルク』にカメオ出演しています。
物語はといえば、1983年の夏、アメリカ人考古学者パールマン教授の元にアメリカ人のイケメン大学院生、オリヴァーが助手としてやってくるところから始まります。教授の一人息子エリオは、クラシック音楽と文学を愛する物静かな17歳の青年。この二人のひと夏の恋物語です。英語、フランス語、イタリア語が入り乱れる、リベラルでコスモポリタンなハイソサエティーが舞台になっています。
ただ、この作品でのゲイの位置付けには、特徴があります。
(*1)
英ウェブサイト「GAY UK」によると、それぞれの文字は以下を意味する。
L – lesbian
G – gay
B – bisexual
T – transgender
Q – queer
Q – questioning
I – intersex
C – curious
A – asexual/agender/ally
P – pansexual/polysexual
F – friends and family
2 – two-spirit
K – kink
(*2)
ロバート・D・パットナム、デヴィッド・E・キャンベル著『アメリカの恩寵 宗教は社会をいかに分かち、結びつけるのか』(柏書房、2019年)を参照
(*3)
森山至貴著『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房、2012年)を参照
(*4)
Victoire Patouillard “Une colère politique. L'usage du corps dans une situation exceptionnelle : le ZAP d'Act-up Paris” 1998を参照
(*5)
C.Broqua&O.Fillieule “Act Up ou les raisons de la colère” 2016を参照