プレスコットの父親がイエス・キリストを処刑したローマ帝国のユダヤ総督だったピラトを話題にするシーンも挿入されています。すなわち、『シークレット・オブ・モンスター』はユダヤ人迫害に帰結する独裁の心理的、歴史的誕生を描くものでもあるのです。
『アドルフの画集』――空虚を埋めたい心
権威主義的な環境で育ったからといって、その人が必ず独裁者になるわけではありません。先の権威主義的パーソナリティの研究でも、その度合いが高くても、実際の行動に表れるには様々な条件が必要となると補足されています。
ナチスを率いたアドルフ・ヒトラーは、いかにして独裁者となっていったのか――いわば独裁者ヒトラー以前のアドルフを描くのが『アドルフの画集』(メノ・メイエス監督、2002年)です。古くは『チャップリンの独裁者』(1940年)が有名ですが、戦後長らくタブー視されていたヒトラーを題材にした映画も、近年、多くみられるようになりました。『ヒトラー――最期の12日間』(2004年)や『わが教え子、ヒトラー』(2007年)、話題になった『帰ってきたヒトラー』(2015年、ちなみに『帰ってきたムッソリーニ』〈2018年〉というイタリア版も作られています)や最近封切された『ジョジョ・ラビット』(2019年)など、21世紀になってヒトラーものが多く製作・公開されるようになりました。この映画はその流れの先駆けに位置付けられます。
公務員だった父親との不仲を経験した青年ヒトラーが画家を目指してウィーンの美術アカデミーの受験に失敗したことはよく知られた史実です。映画は、第一次世界大戦を伍長として戦って除隊し、芸術家を志すヒトラーが、ロスマンという、放蕩に明け暮れるユダヤ人画商と出会うところから始まります。
「反ユダヤ主義は嫌いだ」とこの時代に言明するヒトラーは、反ユダヤ感情をまだ抱いておらず、混乱に満ちた戦後期に理想を求める青年として描かれています。彼は「芸術は永遠の価値のみを反復すべき」といって、芸術に新たな時代の可能性を求めます。「私に才能があるんだな?」と問うヒトラーに対して、ロスマンは「君には凡人と違う何かがある」と、絵の道に進むように説得します。
この映画には、マックス・エルンスト、パウル・クレー、マルセル・デュシャンといった多くの前衛画家の名が登場しますが、ヒトラーの描く絵は未来派の系譜に位置づけられています。未来派とは、1909年にイタリアの芸術家マリネッティが始めた芸術運動の総称ですが、過去の文化を否定するとともに、時代意識を反映して、合理主義や近代主義をロマン主義的に再解釈しようとするものでした。未来派はその後ムッソリーニのファシズムに近づいていきますが、それを担ったのは「前線世代」とも呼ばれた、第一次世界大戦を戦った青年たちでした。彼らが「勇気、大胆、反乱」を謳った未来派に惹かれていったのは自然な流れだったのでしょう。
軍部が喧伝する反ユダヤ主義に染まるようになり、ただ自我の空虚を埋めるために絵を描くヒトラーに、「君の肉声を感じ取れないんだ」とロスマンは自身の内面に正直であるよう迫ります。もっとも、自身の画才のなさにもがき苦しむヒトラーは、政治か芸術かの間で揺れ動き、結党間もないナチ党での演説を請われたのをきっかけに「政治自体が新しいアートだ」と、政治の道に傾いていきます。ロスマンは、政治に目覚めたヒトラーが描いた将来のナチス建築を彷彿とさせるスケッチを見て、その才能の開花に驚き、本格的にデビューさせようとします。もっとも、とある事件が起きたため、この約束は果たされないままに終わります。もし2人が再会することができれば、独裁者ヒトラーは生まれなかったであろうことを想像させるラストです。
ヴェルサイユ体制に不満を持ち、ヒトラーの演説の才能を体制打倒のために利用しようとする軍部の上司は、彼を指して「空虚な社会の申し子かもしれない」と彼の正体を見切ります。父権なき空虚な社会において、ロスマンは何も信じられず、ヒトラーは何でも信じたい、対照的な人物として捉えられています。ファシズム台頭の理由として、世界の現実を見ようとせず、自らの経験も頼りにならず「勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性」があったとするのは、やはり「前線世代」の1人に数えられる哲学者ハンナ・アーレントでしたが、芸術ではなく、政治で空虚を埋めようとしたのが、ヒトラーという独裁者でした。
『ちいさな独裁者』――権威主義の伝染
ハンナ・アーレントの名前は、1963年にイスラエルで裁判にかけられたアドルフ・アイヒマンを「凡庸な悪」と呼んだことで知られています。ナチスの親衛隊将校だったアイヒマンは、各地のユダヤ人をポーランドの絶滅収容所に移送する責任者でしたが、その責任感のなさをつづったのがアーレントの裁判傍聴記『エルサレムのアイヒマン』でした。彼女は、「アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだった」(*4)ことだと記録しています。人類史に残る犯罪を上司の命令に過ぎなかったからと淡々とサラリーマンのようにこなしたアイヒマンのその無思考こそが批判の対象となったのでした。
悪は無思考から始まる、というアーレントの主張をなぞるのは『ちいさな独裁者』(ロベルト・シュヴェンケ監督、2017年)です。映画の主人公は、ドイツ空軍の上等兵だったヴィリー・ヘロルトという、実在の人物です。
ヘロルトは、第二次世界大戦でドイツ敗北が濃厚となった1945年4月に脱走し、命からがら逃走する途中、偶然にも将校の軍服を手に入れます。序列そのものである軍隊での軍服は、権威の象徴そのものです。将校の軍服を着込んだ彼を上司と思いこんだ兵隊を従え、へロルトは生き延びるために架空の命令をでっち上げ、各地に赴きます。自分が作り上げた「ヘロルト親衛隊」に脱走兵を次々と迎えて、既成事実を積み上げることで、彼は共犯者を増やしていきます。弱肉強食の無秩序が横行する中で、権威的であることが自己目的化したヘロルト自身が法と化していきます。
もっとも、周りは彼が本当の将校でも、自らが主張するようにヒトラーの指令を受けた人物でもないことを薄々気付いています。「実情なんて自分で作り出すものだろ」とは、ヘロルトの部隊に加わる兵士の言葉です。しかし、彼の似非の権威は、逮捕を逃れたい脱走兵や、軍規を無視して脱走兵を処刑するための便利な方便として利用されます。
(*1)
Frank Dikötter “HOW TO BE A DICTATOR” Bloomsbury publishing, 2019(未邦訳)
(*2)
T.W.アドルノ『現代社会学大系12 権威主義的パーソナリティ』(田中義久、矢沢修次郎、小林修一訳、青木書店、1980年)
(*3)
『ケインズ全集 第2巻 平和の経済的帰結』(早坂忠訳、東洋経済新報社、1977年)
(*4)
ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告[新版]』(大久保和郎訳、みすず書房、2017年)