イタリアは、1945年4月に逃亡中だったムッソリーニがパルチザン(民衆による非正規軍)に捕らわれて処刑されたことで終戦を迎えます。アルフレードの農場でも、解放された農民たちが蜂起してファシストのアッチラ夫妻をリンチし、地主であるアルフレードは人民裁判にかけられます。農場を舞台に突如として登場した農民たちのユートピアは、自身が共産主義者でもあったベルトリッチ監督によって詩的に描かれており、エキストラとして出演した地元の農民たちの皺のひとつひとつが輝いてみえます。
この映画では、社会主義運動内部の連帯やファシズムのルサンチマン(怨念)など、それぞれの政治運動の特徴が巧みに織り込まれており、同様にブルジョワ・リベラルの持つ二面性が上手に捉えられています。
例えば、天真爛漫なアルフレードの言動を通じて、彼らブルジョワジーが階級の違いがもたらす格差や不平等に極めて無頓着であり、もっともそれゆえに、平等主義的な人間であることが示唆されています。アルフレードは、生まれやイデオロギーの違いを超えてオルモとの友情を大切にし、ともに酒を酌み交わします。ファシストに対しても「連中もここの人間だ。シャツの色が違うだけだ」と融和を説こうとします。アルフレードの妻も、寡夫であるオルモの娘を自分の子の如く面倒をみようとして、その節操のなさからオルモの反感を買います。
つまり、もともと恵まれた階級であることから、階級やイデオロギーのレンズを通じて世界を判断しないゆえ、非政治的であり、自由に世界をみることができるのが、ブルジョワ・リベラルの特徴でもあります。もっともそのために、自らの境遇を変えようと、目の前の現状を否定しようとする人々の怒りや怨念を理解できません。農民を前にした人民裁判でアルフレードは訴えます。「僕は誰も痛めつけていない」――この言葉に農民は言い返します。「地主はみなそういう。しかもそう信じてる」のだ、と。
戦後世代のリベラル――『アメリカン・バーニング』
19世紀に生まれたリベラルは、『1900年』で描かれたように終焉を余儀なくされました。そのバトンを受け取り、新たなリベラルを生み出したのは、戦後に生まれたベビーブーマーでした。彼ら/彼女らが成人を迎える1960年代から70年代は、アメリカの公民権運動や各国での反ベトナム戦争・反核運動、マイノリティの人権保障など、今のリベラルに受け継がれる価値が生まれた時期に当たります。
この時代の世代間の相克を描くのが『アメリカン・バーニング』(2016年)、監督は本作がデビュー作となる俳優のユアン・マクレガーです。原作は、アメリカの代表的作家フィリップ・ロスによるアメリカ三部作のひとつ、『アメリカン・パストラル(アメリカの牧歌)』です(ちなみに三部作のうちのひとつ、『ヒューマン・ステイン』がロバート・ベントン監督『白いカラス』〈2003年〉として映画化されています)。
作品の舞台は、作家ネイサン(ロスの小説では彼の分身としてたびたび登場する人物)が、1996年の時点から回顧する1960年代アメリカ。ストーリーは、ネイサンが友人の兄であったシーモアの半生を追体験していくという形で進行します。ユダヤ系アメリカ人であるシーモアは、高校時代はアメフト部のスター選手、第二次世界大戦で従軍して終戦を迎え、ミス・アメリカ大会にも出たことのある美貌を持つドーンと結婚、父親の手袋工場を継ぎます。「彼の人生はこんな風にずっと順調だと思っていた」――ネイサンはこう推察しますが、60年代に盛行を極める反戦運動、公民権運動といった歴史的事件によって、シーモアの人生は大きな変転を余儀なくされます。
美男美女で絵に描いたような幸せな家庭を築くシーモアとドーンの間に生まれた一人娘メリーは、多感な年頃を迎え、両親との間に葛藤を抱えます。良妻賢母のドーンに劣等感を抱き、そこから来たであろう父シーモアに対するセクシャルな興味も満たされることがありません。彼女は生まれつき吃音という設定ですが、これも旧来の価値観の中で成功し、満ち足りている両親世代との違和感の刻印として設定されています。彼女の違和感は、高校生になって反戦運動へとのめり込むきっかけとなります。メリーは、アメリカの外の世界で起きていることに関心を持たない両親にこう言い放ちます。「戦争に関心ない幸せな中産階級のくせに」「マルクスを読んで。改革は田舎町では始まらないの」――彼女はそのまま過激派組織にかくまわれ、各地で世界革命を目指すテロ活動に参加することになったことが示唆されます。
このように、1960年代から70年代に起きた大きな価値観の断絶を、アメリカの政治学者ロナルド・イングルハートは当時「静かなる革命」と呼び、各国での意識調査から、戦後世代は親世代と異なり、物質的な豊かさよりも、自己表現や自己決定権を優先するようになったと指摘しました。ここから、マイノリティ運動やフェミニズム、エコロジーといった新しい思想が展開していきます。メリーの闘争仲間であるリタは父シーモアにこういいます。「彼女はあんたの所有物じゃないのよ。あんたの工場や高級車とは違うの」。
日本では「団塊の世代」として知られるこの世代は、人口も多く、高度成長の豊かで平和な時代に高等教育を受け、さらに60年代の「政治の季節」(丸山眞男)に青年期を迎えたことで、各国で学生運動の主体となりました。政治学者イマニュエル・ウォーラーステインの見立てを借りれば、彼らはアメリカのベトナム戦争に代表される帝国主義と、ソ連に代表される硬直した官僚主義に対する広範な「反システム運動」を各国で展開することになりました。旧来の共産党主導の左翼と異なり、この流れは「新左翼」と呼ばれる潮流を、その後作りあげることになりました。1年間行方不明になった後、ボロボロになって帰郷してきたメリーを見て、シーモアは嘆きます。「戦争やベトナムは口実に過ぎない。奴らは世界に穴を開け、すべて吹き飛ばしたかったんだ」。
ロスの原作は様々な読み方が可能ですが、60年代を境に、親世代が作りあげようとし、謳歌した牧歌的な世界が、子世代が掲げる新しいリベラルの価値によって、脆くも崩れ去る風景を描くものです。ネイサンは冒頭、戦後を「アメリカは戦争に勝利した。大恐慌も終焉を迎え、人々の苦悩は終わった。高揚感が人から人へと伝染し、皆が一体になり歓喜に酔いしれた瞬間だった。あんな経験はあの時が最後だ。あれから今に至るまで」と、この喪われた時代を、半ば郷愁をもって振り返ります。それでも、闘争の旅から戻ったメリーの吃音が治っていたことに象徴されるように、戦後世代は新たな時代をわが物としていったのです。
(※1)
ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』塚原史訳、みすず書房、2020年