近年、日本でも「リベラル」という言葉が多く聞かれるようになりました。ただ、それが意味するところは――批判する側も、自称する側も――実に多様で、リベラルとは何なのかの理解は容易ではありません。アメリカの歴史・政治学者ヘレナ・ローゼンブラット『リベラリズム 失われた歴史と現在』(青土社、2020年)でも、「リベラル」や「リベラリズム(自由主義)」は場合によっては相反するような、様々な態度や思想であったことが指摘されています。
言葉としての「リベラル」は14世紀頃からすでに存在しており、これが良い意味として用いられるようになるのは18世紀頃のこととされています(確かに、アダム・スミス『国富論』〈1776年〉では「リベラルなシステム」といった表現が用いられています)。そして、20世紀初頭までイギリスの二大政党制の一角だった「自由党(Liberal Party)」が1859年に結党されるなど、19世紀になってからは反王政や自由貿易を掲げるブルジョワジーによる「リベラル」が本格的な政治潮流として台頭し、ここに「自由主義(リベラリズム)」が誕生します。
こうした経緯からヨーロッパでリベラルとは、自由市場(レッセフェール)や私的自由を重んじる立場を指してきました。対してアメリカでは、1930年代の大恐慌の時に行われたローズヴェルト大統領によるニューディール政策がリベラルの基盤であるとされ、むしろ大きな政府や社会保障を重視する立場がリベラルとして認識されるようになります。
そして現代では、1960年代以降の個人の権利や社会の多様性、寛容などを重視する価値観がリベラルとしてイメージされています。このように歴史的にみると、まったく異なるものがリベラルと呼称されてきたことがわかります。
それでも、リベラルという言葉や態度は、現在に至るまで命脈を保ち続けています。それはなぜなのか。時代を追いながら、リベラルの姿を3本の作品を通じて確認してみます。
ブルジョワのリベラル――『1900年』
『1900年』は、イタリアの名匠ベルナルド・ベルトリッチによる1976年の作品です。1900年頃からムッソリーニ・ファシズム体制が崩壊する1945年までのイタリアの約半世紀が、5時間以上をかけて物語られます。監督の生まれの地であるエミリア゠ロマーニャ州の雄大な田園風景に、エンニオ・モリコーネの美しい音楽が重なる、壮大な叙事詩的大作でもあります。内容は20世紀前半のヨーロッパ政治の風景を色濃く反映しており、当時の政治状況を理解するための最良の映画のひとつといっていいでしょう。筆者は大学で「ヨーロッパ政治史」という授業を受け持っていますが、この時代を知るためにはこの映画を観るよう、学生にいつも勧めています。
物語は、ロバート・デ・ニーロ演じるアルフレードとジェラール・ドパルデュー演じるオルモ、さらにドナルド・サザーランドが怪演するアッチラという3人を主軸に展開していきます。地主のアルフレードはリベラル、彼の土地で小作農として雇われているオルモは社会主義を象徴する人物として捉えられます。さらに、後半から登場するアルフレードの館の管理人アッチラはファシストであり、1920年代から30年代にかけて相克を極めたリベラル、社会主義、ファシズムの三角関係からなる政治の季節を描いています。映画の冒頭に挿入される「(オペラ作曲家の)ヴェルディが死んだ!」と「スターリン万歳!」という声が、政治の時代へと突入していくことを予見させます。
1900年の同じ日に生まれたアルフレードとオルモは幼馴染みとして友情を育みます。もっとも、成人を迎えるころ、第一次世界大戦の終戦とともに社会が混乱に陥り、二人の溝は徐々に深まっていきます。「地主に搾取されファシストに焼き殺された」と訴えるオルモをはじめとする小作農たちは、革命を夢見て社会主義運動に身を投じ、社会主義革命に怯える地主やカトリック教会は、資金を投じてナショナリズムと反共主義を掲げるファシズム運動を背後から支援します。
1922年には、ムッソリーニ率いるファシズム運動の武装組織「黒シャツ隊」によるローマ進軍で、ファシスト政権が成立します。こうして、1930年代、リベラルはファシズムと社会主義との挟み撃ちに遭います。議会多数派のリベラル勢力は左からの革命勢力と右からの反革命勢力に対処できず、それによってファシズム体制を招き寄せることになります。すなわち、社会主義革命によって土地や資産を奪われることを恐れるブルジョワ・リベラルにとって、ファシズムはより少ない悪だったわけです。『1900年』でも、アルフレードは、ファシストたちが自分の農場で農民に暴力を振るうのを為すがままにします。
(※1)
ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』塚原史訳、みすず書房、2020年