静謐に事実的出来事を積み重ねて多くを語らず、真実を語るのがダルデンヌ兄弟の作品の特徴ですが、この作品では宗教への視点は両義的であるように見えます。ひとつは、イスラム原理主義への批判的視点があります。例えば、まだ多感な少年を半ば洗脳し、他人を傷つけることを許容しておきながら、イマームが少年を守ろうともしない様子が描かれます。他方、アメッドは様々な要因から、家庭でも学校でも不安定な状況に置かれてる。そうした環境が描かれることで、彼が殺害行為に及ぼうとしたのが、必ずしも宗教的な理由だけではないことも強く示唆されています。すなわち、彼が犯行に及ぶには、必ずしも宗教の存在は必要ではなかったということも暗示されているのです。
イネスに赦しを乞う最後のシーンで、アメッドは人間が持つ主体性を回復して、自ら反省の弁を述べます。母親にも嘘を付き通した彼が、他人に対して初めて正直に心を差し出せるようになります。信仰心から罪を犯したにせよ、それを反省する力を少年は持っている――それがダルデンヌ兄弟の導いた真実だといえるでしょう。
神の前の平等――『ミッション』
神を信じることは、人間の強さにも転じます。そのことを史的事実にヒントを得て描くのが『ミッション』(ローランド・ジョフィ監督、1986年)です。主役級にロバート・デ・ニーロ、ジェレミー・アイアンズ、リーアム・ニーソンといった実力派俳優を揃え、カンヌ映画祭パルム・ドールの受賞作品です。ちなみに『ミッション』は、映画誕生100周年に寄せてバチカンの推薦する映画15選にも選ばれています。
映画の主人公は、1750年代、現在のアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの国境付近に入植したイエズス会の宣教師たちです。宣教師の一人で、先住民(グアラニ族)への布教を熱心に行うガブリエル神父は、ある日、色恋沙汰から弟を殺してしまった奴隷商、メンドーザと遭遇します。ガブリエル神父は、怒りに任せて犯した罪の意識に苛まれていたメンドーザに贖罪の機会を与えます。それを受け入れたメンドーザは、奴隷のように重荷を引きずりながら険しい道のりを乗り越え、ガブリエル神父とともに山奥のグアラニ族のもとに赴くことになります。
グアラニ族は、かつて自分たちの仲間を‟狩って”いた元奴隷商のメンドーザが、奴隷のように苦しみながら到着した姿を見て、彼を赦すことになります。ここにメンドーザは改心し、イエズス会士としてグアラニ族とともに生きることを決意します。
ガブリエル神父ら宣教師たちは、先住民族もまた神の子であり、人間として処遇すべきである、と考えます。人は神が作ったのだ――それがフィクションであっても――という仮定があって初めて、見知らぬ人間たちも、自分たちと同じだと認めることができます。ゆえに、メンドーザとグアラニ族は、ともに神を信じることで、和解を果たすことができたのです。
ここまでなら、凡庸なキリスト教賛美の映画で終わったかもしれません。しかし作品の後半は、政治的な雰囲気に彩られていきます。大航海の時代、新大陸はスペインとポルトガルの覇権争いの地でした。イエズス会の教区をどちらの国に組み入れるべきか。世俗権力であるスペインとポルトガルの国王、それら両国と良好な関係を保ちたい宗教権力たるローマ教皇庁、そして教皇に忠誠を誓いつつ先住民たちへの布教の使命を負ったイエズス会、さらにこれらに翻弄されるグアラニ族との複雑な力学のもとで、物語が展開していきます。
イエズス会の教区を何れの国に組み入れるかという政治的な決断を迫られた枢機卿は、グアラニ族に対し「神の命令」として、教区から立ち去るよう告げます。しかし、ガブリエル神父の布教活動によって信仰心を抱いて平穏な生活を送っていたグアラニ族は、‟それは神の意思ではない”と、枢機卿の提案を拒否します。メンドーザも、ガブリエル神父の反対を押し切ってグアラニ族とともに、排除を試みる軍隊と戦うことを決意します。
ここに宗教が人間に与える重要な要素、すなわち信仰によって運命に立ち向かう強さとともに、信仰ゆえに与えられる自由を見て取ることができます。
「自由とは、キリスト教的なメッセージの最初に来るもの」といったのは、コロナ禍でリーダーシップを発揮したドイツのメルケル首相です。彼女は理系出身として知られていますが、他方で敬虔なクリスチャンでもあります。メルケルは、神が人間を自由な存在として創ったのであれば、自分の果たすべき役割が何であるのかを考える自由が生じることになり、そこから人間は行動する責任を持つのだと論じます(*2)。その自由を自らの手で取り戻したのは、『その手に触れるまで』のアメッドも、『ミッション』のメンドーザも、方向は違えども、同じです。このように、信仰は人々の思考や行動を束縛するのではなく、自由を与えるという機能も持ちます。
この“絶対的なる存在”を措定することで余儀なくされる自己反省、そしてそこから生まれる自由こそ、宗教の核心のひとつであるということを、次の作品で確認してみましょう。
神との対話――『ジャンヌ・ダルク』
パリのルーブル美術館の近くに、馬にまたがった黄金に輝くジャンヌ・ダルクの銅像があります。14世紀から続いたフランスとイングランドとの間の百年戦争で、神の啓示を受けたとしてフランス軍を率い、イングランド軍を駆逐したことで知られる女性です。リュック・ベッソン監督がこの歴史上の人物を描くのが、『ジャンヌ・ダルク』(1999年)です。ベッソン監督のミューズ、ミラ・ジョボヴィッチをジャンヌ役に配し、脇役にはジョン・マルコヴィッチ、フェイ・ダナウェイ、ダスティン・ホフマン、ヴァンサン・カッセルなど豪華俳優陣で固めた作品です。ベッソン監督といえば、『ニキータ』(1990年)や『レオン』(1994年)といった実存主義的なアクション映画が思い起こされますが、『ジャンヌ・ダルク』は、彼の作品の中で最も理知的な作品のひとつに数えられるでしょう。
15世紀初頭、フランス北部のほとんどはイングランドの支配下にありました(ちなみにブルゴーニュ地方でウィスキーの蒸留所が多いことと、この地がイングランドの支配下にあったこととは無関係ではないでしょう)。ところが、ジャンヌの活躍をきっかけに、フランスは15世紀半ばには領土を回復、その後のフランス絶対王政の基盤が作られました。ジャンヌはフランスの救世主として、その功績を死後に称えられ、20世紀になってバチカンから聖人として列聖された英雄です。
(*1)
ジェラール・ノワリエル『フランスという坩堝』(法政大学出版会、2015年)、ハニフ・クレイシ『言葉と爆弾』(法政大学出版会、2015年)を参照
(*2)
アンゲラ・メルケル『わたしの信仰』(フォルカー・レージング編、松永美穂訳、新教出版社、2018年)より