映画では、ジャンヌが幼い頃から神の啓示を受けていた様子が描かれます。17歳になった彼女は、自らが聞いたという神の声を伝達するためシャルル王太子(後のシャルル7世)に謁見を求めます。カトリック教会が絶大的な力を持っていたこの時代、王太子が国王となるには教会による戴冠式を行う必要がありました。フランク王国の初代国王のクローヴィスがランス大聖堂で戴冠式を行ったことから、正統な国王となるためには、イングランドの支配下にあるランスを奪還しなければなりません。ジャンヌは、イングランド軍を打ち負かし、ランスでの戴冠式を実現させると王太子に約束します。彼女の信念を信じた王太子は彼女に軍隊を与え、こうしてパリ南部の要衝オルレアンの奪回作戦が始まります。
この1時間以上にわたる残酷な肉弾戦も、この映画の見所のひとつになっています。ジャンヌは自ら前線に立つことで士気を失っていたフランス兵を鼓舞し、多大な犠牲を出しながらも、オルレアンの奪還に成功します。
こうしてランスでの戴冠式が実現し王太子は、シャルル7世としてフランス国王となりますが、王はイングランドとの和平交渉を優先させるため、ジャンヌを見捨てることになります。捕虜となり、イングランドに囚われたジャンヌは異端審問にかけられます。そのときに牢獄で行われる、ジャンヌと神と思しき存在(以下“神”)との対話は、この作品のもうひとつの見所です。この“神”は徹底してジャンヌを突き放します。神の啓示を受けて自分は戦ったのだというジャンヌに、“神”は「何様のつもりだ? 善悪の区別ができるのか? お前は神か?」「神がお前などを必要とすると思うか?」と畳みかけます。
ここには、キリスト教の本質が示されています。キリスト教では、この世を創った神は人格を持った全知全能の存在ですが、それゆえ、人間は神の意思や本意を知ることはできません。神に似せて作られた不完全な存在である人間にとってできることといえば、様々な証言や経験が書かれた聖書を読むことで神の意思を感じ、赦しを乞い、その意図が何であるのか、祈りという行為を通じて解釈することだけです。神の意思を受けたとするジャンヌは、それが本当に神の意思なのかどうか、証明する術は持ちません。
ジャンヌは反論します――「私はいつも神に忠実で、御言葉に従い頼まれたことも実行した」。すると“神”は次のように返します。「神がお前に頼み事を?」。この意地悪な“神”はジャンヌが信じたという啓示をことごとく論破していきます。ベッソン監督は、ヨブが神に信仰を試される聖書の「ヨブ記」にこの対話のヒントを得たに違いありません。すなわち、人間にとって神は問いかけの存在でしかあり得ず、それゆえ人間は神から常に試される対象でしかないのです。
もっとも、このような神と人間との間に非対称性があるからこそ、人は神と対話し、対話に仕向けるのがキリスト教の特徴です。例えば――ジャンヌが幼い頃に経験したように――大変な試練を経験したとして、なぜそれが神の意思によって自分の身に降りかかったのか、人が推し量ることはできません。できることは、それが神の意思であることを知りつつ、なぜなのかを問い続けることしかありません。
作中に現れる“神”を演じるダスティン・ホフマンの配役は、クレジットでは「良心(conscience)」と記されています。囚われの身となって心身ともに弱まったジャンヌが神の存在証明を求めて良心の糧を求めたのは、彼女の信心が弱まったことの証しでもあるでしょう。ジャンヌはもはや神に問われる存在ではなく、逆に神を問う存在へとすり替わってしまったからです。劇中のジャンヌは、幼い頃から事ある度に教会に懺悔に赴き、神の赦しを得ないと気が済まない少女としても描かれています。異端審問においても、ジャンヌは大司教に告解を懇願しますが、魔女として処した審問団に受け入れられることはありませんでした。火刑を前にした最後の審問で、改悛の誓約書にサインすれば懺悔を聞くという大司教の説得によって、ジャンヌは勢い余って署名してしまいます。それを見た“神”はいいます――「お前が神を見捨てたのだ」。
信仰に正解があるわけではありません。あるとしたら、それは「信じる」という行為そのもの以外にありません。しかしジャンヌは土壇場で信心を捨て去り、神に正解を求めようとしました。それゆえ、彼女に真の良心の言葉が届けられることになります。それを聞いたジャンヌは自らの魂を自らの手で救うために、処刑されることを自らの意思でもって選び取ることになります。
神から与えられた良心に従うかどうか。その自由をどのように活かすのかは人間次第です。信仰を生きるには、その分、人間の側も強き存在であることが求められます。もし現代において宗教的なものが広がっているのだとすれば、それは人間の自由が広がり、そしてその自由の活かし方を弱き人間が持て余していることの証左なのかもしれません。その自由をどのようにこれから活かしていくべきなのか――神はそれを見守り続けることになるでしょう。
(*1)
ジェラール・ノワリエル『フランスという坩堝』(法政大学出版会、2015年)、ハニフ・クレイシ『言葉と爆弾』(法政大学出版会、2015年)を参照
(*2)
アンゲラ・メルケル『わたしの信仰』(フォルカー・レージング編、松永美穂訳、新教出版社、2018年)より