21世紀は「宗教の時代」として記憶されるようになるかもしれません。
近代になって、人々は宗教や迷信から解放されて世俗化が進むと想定されました。人は、より合理的かつ理性的になり、自らの運命を自らの手によって切り拓いていくことができる――社会学者マックス・ウェーバーは、こうした近代世界の認識を「世界の脱魔術化」という言葉で跡付けました。
しかし20世紀末からこうした状況が大きく変わり、21世紀になると「再魔術化」や「ポスト世俗化」という議論が見られるようになっています。日本では、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、同時期にアメリカでは、複数のカルト集団による集団自殺が起きました。2000年代に入ってからは、9.11の同時多発テロや欧州各地でのイスラム原理主義者によるテロが、大小様々な規模で勃発しています。また、アメリカでは福音派と呼ばれるキリスト教原理主義の教団員が人工妊娠中絶を施した産婦人科医を殺害するという事件もたびたび起きています。個々の事件は教義だけに原因を求められない部分もありますが、それでも宗教的なものが現代社会で頭をもたげるようになったことは事実です。
本来、世界の平和と調和、個人の安寧と幸福を願う宗教が、なぜ暴力的なものとなり得るのか。そして、宗教による個人の救済は可能なのか。それを知る手掛かりとして、今回は「宗教」をテーマとした3本の作品を見ていきます。
「赦し」はどう生まれるのか――『その手に触れるまで』
最初に紹介するのは、カンヌ映画祭受賞者の常連、ベルギー人のジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟による監督作『その手に触れるまで』(2019年)です。ベルギーの首都ブリュッセルでは、2016年に死者30名以上、負傷者300名以上という大きな被害を出した自国のイスラム原理主義者によるテロが起きています。ダルデンヌ兄弟は、こうした欧州各地で頻発するテロに関心を持ち、この作品を制作したといいます(なお、同じ関心から制作された最近のフランス映画として『見えない太陽』〈2019年〉があります)。
2015年のパリ同時多発テロの若い首謀者の一人もベルギー出身で、ブリュッセルのモーレンベークという地区で育っています。現地に住むジャーナリストの案内で筆者もこの地区を訪ねたことがありますが、ムスリム(イスラム教徒)によるムスリムのための店が軒を並べる一方、移民系市民との共生を促進するための施設もあり、相互理解のための様々な取り組みが地域をあげて行われていたことが印象に残っています。
映画の主人公はアメッドという名の少年です。名前から解るようにムスリムの移民で(ベルギーの人口の7%がイスラム教徒とされます)、兄姉とともに母子家庭に暮らしています。こうした設定も、イスラム原理主義者の多くが移民の2世ないし3世で、青少年期に家庭でのトラブルを抱えるケースが多いという事実に基づいたものでしょう(*1)。
アメッドは、ある日突然、友人とテレビゲーム遊びに興じるような「普通の少年」から、私的モスク(礼拝所)に入り浸って義務である毎日5回の祈祷を欠かさず、クルアーンを諳(そら)んじるような敬虔なイスラム教徒へと変身します。理由は明確に説明されませんが、敬愛する年長の従兄がイスラム過激派として海外で殉死したことが彼に大きな影響を与えたことが示唆されています。
イスラムの教えでは夫婦以外の男女が握手することを禁止しているため、アメッドは、親身になって彼を教える補習校の先生イネスとの身体的な接触も拒否します。心配するイネスは、クルアーンを一緒に読んで解釈について意見を交わさないかと誘い、補習校では歌でアラビア語教育を行う提案もします。ところが、アメッドの私淑するイスラム教の導師(イマーム)が補習校での歌によるアラビア語教育を批判し、聖戦をほのめかすのを聞いて、彼はイネスをナイフで殺害するという愚行に及ぼうとします。
殺人は未遂に終わり、アメッドは少年院に入れられます。指導員は彼に優しく接し、研修先の農場の娘ルイーズも彼に好意を寄せますが、アメッドはイネスの殺害に依然として固執、逃亡を図ります。その足で向かったのは、イネスの勤める補習校でした。外壁を登って侵入しようとしますが、ここでも失敗し、彼は落下して負傷します。彼を助けようと現れたイネスに、アメッドは手を差し伸べて、こういいます。「イネス先生、ごめんなさい」。
(*1)
ジェラール・ノワリエル『フランスという坩堝』(法政大学出版会、2015年)、ハニフ・クレイシ『言葉と爆弾』(法政大学出版会、2015年)を参照
(*2)
アンゲラ・メルケル『わたしの信仰』(フォルカー・レージング編、松永美穂訳、新教出版社、2018年)より