『ティエリー・トグルドーの憂鬱』――自由なき資本主義
最近刊行された白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社、2020年)は、マルクスの長大で難解な『資本論』を丁寧かつ感覚的に読み解いた本です。ここで白井は、共産主義革命や社会民主主義といった歴史的な階級闘争の戦略はもはや成り立たず、それゆえ、個人が「これは当たり前ではない」「これはもう我慢できない」という感覚こそが、新たな階級闘争の始まりとなるはずだ、と主張しています。
ただ、資本主義と戦うためのこうした感覚は、必ず有効なものでしょうか。それというのも、資本主義は、人々の自由を求める歴史と軌を一にするものでもあったからです。歴史家ジェリー・ミュラーは、哲学者ヴォルテールやヘーゲルなど西洋の歴史に名を残した16人の書を読み解いて、市場には利点があると常に見られてきたと説明します(*5)。なぜなら、市場は人種や宗教といった属性を超えて人と人との間に関係を築き上げることができ、個人が伝統的な共同体に依存せずとも生きていくことを可能にするからです。例えば、地方から都会に出てきてアパートを借りたいとしましょう。その時、保証人になる家族や友人がいなければ、保証会社が用意した制度を利用することもできます。これも市場の論理ですが、それがあるお陰で人は自由を手にすることができるのです。このように、様々なものを商品化する資本主義は、貨幣で交換できる対象を増やすことで、人間に時間と空間を超えた自由を作り出していきます。すなわち、資本主義は人間の自由と解放と一体になっているからこそ発展してきたと言えるでしょう。絶対王政を打倒することになった19世紀のブルジョワ社会が自由主義と資本主義の担い手になったことを忘れてはなりません。そして、こうした歴史的潮流の中から、契約の自由や法の支配からなる市民社会が生まれてきました。だから、個人が自由を希求する存在である限り、資本主義が終わることはないでしょう。
ならば、人を自由にしない資本主義は、その限りで否定されるべきものだということになります。そのことを最後の一本、「市場の法則」という原題を持ったフランス映画、『ティエリー・トグルドーの憂鬱』(ステファヌ・ブリゼ監督、2015年)で見てみましょう。
映画の主人公は、エンジニアの職を整理解雇された中年男性ティエリー。この映画も、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督、2016年)でも揶揄の対象となった職業安定所の理不尽さを描くところから始まります。1990年代後半から先進国では、労働市場で働けなくなった失業者を保護するのではなく、むしろ職に就けさせることを目的にする、いわゆる「雇用可能性(エンプロイアビリティ)」が重視されるようになりました。労働者を市場の法則から守ることを「脱商品化」と言いますが、労働者を「再商品化」するのがトレンドとなったのです。しかし公共機関が介入しても、雇用の需要と供給をマッチングさせるのは困難です。ティエリーも、重機械の操作の職業訓練を受けますが、職業安定所は、紹介先の会社が経験者しか採用しないことを知らないままでした。
それでも彼は、高校生である障害を持つ長男の介護費用のためにも、賢明に職探しに邁進します。履歴書の書き方や模擬面接を経て、ティエリーは大型スーパーの警備員の職に就きます。コロナ禍の中で「エッセンシャル・ワーカー」や「キーワーカー」として知られることになったように、現代社会はこうした低賃金で小売り販売・流通に携わる人々にますます依存するようになっています。
スーパーで彼にあてがわれた任務は、80台の監視カメラを使って、万引き客とレジ打ち係の監視でした。実際、ユーロ危機が深刻化する中、フランスでは万引き件数が2007年頃から急増、2013年には7万2000件と、2000年と比べて1.5倍となり、こうした監視をする職種への需要が高まりました。スーパーの経営会社は、客に対して対外的には奉仕の精神を謳いながら監視を怠らず、レジ打ちの従業員がポイントカードを不正利用したり、客が捨てたクーポンをポケットに入れたりすることを咎め、人減らしの口実にします。
ティエリーは、過去に自分を解雇した会社との法廷闘争に加わらない理由を、自分の中でケリをつけて前に進みたいからだと仲間に対して雄弁に説き、生活資金を得るためにアパートや別荘を売却するのを拒否する、誇りの高い人物として描かれます。しかし、映画の後半、スーパーの警備員となってからの彼の台詞はどんどん少なくなり、徐々に表情と感情をなくしていきます。喜びや悲しみという感情すらも、意識的に封じ込めなければ、働くことがままならないからです。
この作品には、ティエリーが妻とともに、社交ダンスクラブでレッスンをするシーンが長々と挿入されています。失業中のささやかな社会生活であるとともに、ぎこちないティエリーを描くことで、資本主義が要求するリズムに乗ることのできない彼を象徴的に捉えています。『ティエリー・トグルドーの憂鬱』は、『怒りの葡萄』のように資本主義を非難するのでも、『マネー・ショート』のようにその冷酷なメカニズムを描くものでもありません。人から自由を奪い去るばかりか、奪い去っていることをも忘れ去らせてしまう資本主義が、果たしてその名に相応しいのかどうかを、私たちに静かに問いかける作品です。資本主義が本格的に誕生した19世紀の時のように、それが私たちの自由に奉仕するものであるのかどうかを精査すること――そんな観点から資本主義を捉え直すことも必要なのかもしれません。
*1
K.ポラニー『[新訳]大転換』野口建彦・栖原学訳、東洋経済新報社、2009年
*2
W.シヴェルブシュ『三つの新体制』小野清美・原田一美訳、名古屋大学出版会、2015年
*3
W.シュトレーク『時間かせぎの資本主義』鈴木直訳、みすず書房、2016年
*4
柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年
*5
J.ミュラー『資本主義の思想史』池田幸弘訳、東洋経済新報社、2018年