2014年6月18日、東京都議会に、そんな言葉が飛び交った。都議会議員の塩村文夏(あやか)氏が、妊娠や出産に悩む女性への支援策について質問したところ、議場から飛ばされたヤジである。
数日間「犯人探し」が続いたものの、5日後の23日、自由民主党の鈴木章浩都議がやっと一部の発言を認めて名乗り出る。同日、塩村都議に面会、謝罪した。
誰が笑ったのか、ヤジを最初に飛ばした議員が誰で、同調したのは誰なのか。その間メディアでは、そんな憶測ばかりが飛び交った。
今回は本人が名乗り出たわけだが、ある意味、鈴木都議はこの国に渦巻く「一部のオトコの本音」を、うっかり漏らしてしまっただけのように思えるのだ。だからこそ、この暴言が話題となった時、私の中には「またか」というあきらめの感情しか芽生えなかった。
たまたま「都議会」で、35歳の女性議員に対してこのようなヤジが飛ばされたから問題になったものの、少なくない女性が、この手の「暴言」に日々さらされている。実際に言葉として発されていなくても、「結婚しろ」「産めないのか」というプレッシャーは、まるで空気のように女性たちを追いつめている。
07年には、当時の厚生労働大臣・柳澤伯夫(はくお)氏が、「女性は産む機械」と発言して批判を浴びた。その時も、発言した当人は世間の非難にさらされた。
だけど、どんなにバッシングの機運が高まろうとも、私たちはそれがただの「儀式」に過ぎないことをどこかで知っている。
今回の「ヤジ騒動」を受け、「セクハラは絶対にいけない」と、したり顔で繰り返す多くのメディアが、では普段からジェンダー意識の高い報道をしているかと思えば、まったくそんなことはない。テレビのコメンテーターなどの発言を見ていても「え、お前にセクハラヤジを批判する資格なんてあるわけ?」と、何度も愕然(がくぜん)とした。
今回の「都議の自爆」と「大バッシング」。それによる見せしめ効果は、いつまで続くのだろう。このエッセー原稿が公開される頃には、既に忘れ去られているかもしれない。
さて、そんな原稿を書いている私も39歳にして出産経験はなく、その予定もまったくない。
同世代の友人、知人には子どもがいる人もいれば、いない人もいる。ただ、どうしても普段食事したり遊んだりする機会が多いのは、子どもがいない人だ。彼女たちと話していると、別に「子どもはいらない」という強い思いがあるわけではなく、あまり深く考えずに、仕事をしてきたらそうなった、という具合で、これは私も同じだ。
ただ私自身は、積極的に「子どもがほしい」と思ったことは一度もない。それはおそらく、「自分」という人間を世の中で一番信じていないからである。自分のような適当な人間が、「絶対的な保護が必要な子ども」を責任をもって育てることなどできるはずがない、という強い確信があるからだ。
なぜなら、基本的に酒飲みだし、友達に誘われたらついつい夜中でも出歩いちゃうし、そのままどっか旅行に行っちゃったりもするし、仕事で家を空けることも多いし。
今は猫2匹との気楽な暮らし。突然の1泊旅行ということになってもキャットシッターを頼める友達もいるし、1泊ぐらいなら水とご飯を準備しておけば大丈夫だ。が、乳飲み子がいて、これをやってしまったら立派なネグレクト(育児放棄)。トンデモない虐待である。
よって、私に「子どもがいない」ということは、あらかじめ被害が起こらないように自分自身で未然に防いでいる、という見方もできる。
「自分をとことん信用しない」ということは、「自分を過信する」よりは、おそらくタチがいいと思うのだ。というかそもそも「子どもがいる」ということは、子どもを作る相手がいるということだ。が、やっぱり「自分をとことん信用していない」ので、その相手のことがずっと好きだなんてとても思えない。もしかしたら明日大嫌いになるかもしれないし、あさってには他の人を好きになるかもしれないのだ。
そんな人間は、やはり余計なことをしない方が賢明だと思うのだ。
というかそれ以前の前提として、ずーっと疑問に思っていることがある。現代の「子育て」の多くが、「恋愛感情」という、人間のもっとも不安定な感情によって成り立つ「結婚制度」のもとで、「この感情が未来永劫続く」という勘違いの中にいる2人によって担われている、という状態にあることだ。
これって危なくて危なくて仕方ない気がするのは、私だけではないと思う。
実際、夫婦の関係性の悪化、破たんによって起きる虐待やネグレクト、そしてその果ての子どもの死といった事件は多く起きている。別れ話の泥沼の渦中に、時に「自分では何もできない未熟な命」が丸投げされているということ。なぜ、このことがもっと危険視されないのか、私には不思議でしようがない。
他にも、こまごまとした「積極的に子どもがほしいと思えない」理由はある。
まわりで「仕事と子育てを両立」している人たちを見ると、とにかく過労死しそうなほど大変そう。格差が広がり続け、「生産性が高いやつ以外はいらない」という市場原理が熾烈(しれつ)になるばかりのこの国で「普通に幸せになれるのか」を考えると、なかなか楽観的にはなれない。
その果てに、心が優しかったり不器用だったりする人ほど、引きこもりとかになってしまいそう。
既にまわりには、「40代になった引きこもりの息子が、70代の両親の年金に支えられてなんとか生きている」というような実態が何例かある。年金の破綻が叫ばれる自分の世代が、「中高年で引きこもりの子ども」を支えられるとはとても思えない――などなどだ。
もちろん、そんな中でも「子どもを産む」という選択をしている人は当然いる。
産む、産まない、どちらの選択も尊重されるべきだし、しかしそこに「選択の余地」があったかどうかも、本来は考慮されるべきなのだ。
現在は「子どもがいる」ということを、「特権階級の証し」のように見る人もいる。安定した職と収入、まずはこれがないと話にならないからだ。そして私のようなフリーランスには間違いなく、これがない。
今、女性たちを追いつめているのは、「産め」という圧力だけではない。「社会参加もして日本経済に貢献しろ」という要求までされている。女性はそもそも「産む機械」でもないし、「日本経済に貢献するためのコマ」でもないのに、「社会参加」とおだてられながら、多くの女性たちがすり切れている――。そんなイメージが頭に浮かぶ。
圧力をかけてくるのは、何も男性だけではない。
「とにかく子どもを産むことが女性の最上の幸せ」という価値観を押し付けてくる一部女性たちが、「母性に満ちた暴力」をふるってくる。
例えば最近、「母親たちが集まって社会問題について語ろう」という趣旨のイベントのチラシを見て、愕然とした。そこには「命を産み、育むことこそが女性の幸せ」「それこそが女性の生きる意味である」というようなことが、「これでもか!」という勢いで、びっしりと書かれていたのだった。
世の中には、不妊に悩む女性も多いのである。身体的にも経済的にも大きな負担に耐えながら、不妊治療をしている人もたくさんいるのである。「産みたい」と思いながらも適齢期を過ぎてしまった女性や、病気で子宮を摘出した女性だっているのである。そのチラシは、何かそんな人たち全ての、それぞれの思いを踏みにじるようなものに思えて、ただただ切なくなったのだった。
産むか、産まないか。
そんな個人的なことは、はっきりいって、放っておいてほしい。今回の「セクハラヤジ」問題を受け、ある漫画の1シーンを思い出した。それは益田ミリさん著の『結婚しなくていいですか。』(2010年、幻冬社文庫)
40歳になるOLのさわ子さんは、彼氏もなく、セックスもこの13年間していないという地味な日々を送っている。そんな彼女が生理痛で辛い日、同僚の女性(既婚、子あり)は言うのだ。
「大丈夫? あたし、子ども産んだらなおっちゃったよ さわちゃんも早く産んじゃいなよ」
その言葉を受けて、さわ子さんは思う。
「女からも、日々こまごまとしたセクハラを受けているわけで でも、慣れたりはしない 慣れることは許すこと こうゆう鈍感な言葉に 傷つくことができるあたしでいたい」
私自身も「ひどい言葉」に、慣れてしまいそうな時がある。慣れて、許して、なかったことにしてしまったらどれほど楽かも知っている。
だけど、やっぱりそれじゃダメなのだ。
無神経で鈍感な言葉にまひしないこと。
傷つくことができる自分でいること。
難しくて、面倒だけど、やっぱり私も、そんな私でいたいと思うのだ。
だって無神経になってしまったら、自分が誰かに「ひどい言葉」を発してしまうかもしれない。そしてそのことにさえ気づいていないような人間になってしまうかもしれない。
それだけは、嫌なのだ。