あなたはスポーツが好きだろうか。
「好き」と答えた人の中には、子どもの頃からスポーツ万能で今も身体を動かすのが大好き、という人もいるかもしれないし、自分はあまり得意じゃないけどスポーツ観戦が趣味、という人もいるだろう。
で、私はと言えば、スポーツ全般が大の苦手である。よって「スポーツ大好き」という人は今回のエッセーは読まないほうがいいかも、と書きかけたのだが、「スポーツ好き」な人にこそ読んでほしいと今、思い直した。なぜなら、スポーツの背後には様々な問題が潜んでいるからである。
ではなぜ私がスポーツが苦手なのかと言えば、ただ一言「体育会系の人が怖い」というこの一点に尽きる。
小学生の頃からスクールカースト下位だった私は、物心ついた時から、教室の真ん中を独占し、大きな声で喋る体育会系同級生たちが怖くて怖くて仕方なかった。なぜか彼ら彼女らはいつも教室の空気を支配し、誰か一人が「あいつ、キモくない?」などと言おうものなら即、いじめの対象にされたからだ。
よって毎日息をひそめていたのだが、中学校入学と同時に、とうとう体育会系の餌食にされてしまう。「先輩」に半ば脅されるようにして、まったく興味も関心もないバレーボール部に入部してしまったのだ。そこはまさに100%体育会系の世界。顧問教師が連日のように部員たちに暴力をふるう緊迫した空気の部活には、陰湿ないじめが蔓延。私もターゲットとなった。
このことがトラウマとなり、私は未だに体育会系の人、そしてスポーツ全般が苦手である。テレビでサッカーなんかをやっていてみんな盛り上がっていても、「これだけこのチームが強くなった背景にはどれだけのいじめや暴力があり、どれほどの犠牲者がいたことか……」などなど、いろいろ考えてしまい、辛くてとても正視できない。そのうち「このチームの足を引っ張ったことで壮絶ないじめを受け、過去に自殺した選手の霊」までもが見える気までしてくる始末。「勝つ」ことの邪魔をする人間には何をしてもいいという価値観のもと、自分へのいじめが容認され続けてきたことへの憤りや恐怖は、今も私の中で燻っている。
さて、そんなことを「元スクールカースト底辺層」の友人なんかに話すと、みんな「わかるわかる!」と共感してくれるのだが、ただ一つ、今でも不思議なのは「なぜ、義務教育の現場では運動神経がいいだけの層が、全国津々浦々の教室においてスクールカースト上位を独占していたのか?」という問題である。
これについて悶々と考えていたところ、「主流秩序」という概念を唱えるイダヒロユキ氏の本『閉塞社会の秘密 主流秩序の囚われ』(2015年、アットワークス)で、「スポーツ能力秩序」という言葉を発見した。
スポーツ能力秩序とは次の通りある。
「『スポーツができるのが良いという秩序』……スポーツができるほど、運動神経がいい人ほど、体力がある人ほど上位、運動下手な人、体力がない人などは下位で、笑いものになる、スポーツのなかでもサッカーや野球やゴルフなどメジャーなものは上位にされ、卓球や弓道やレスリングなどマイナーなスポーツをしている人ほど下位」
この本が出版されたのは2015年だが、私や周りの子どもたちは皆、これらのことを1980年代に、生まれて数年くらいで知っていた。誰に教えられたわけでもないのにだ。
なんで? この価値観ってどこから来たの? なんで私、小学3年生くらいで「卓球部はダサいからバカにしていい」って「知ってた」の?
主流秩序とは、このように「スポーツ能力秩序」や、モテるほうがいいという「モテ能力秩序」、きれいなほうが上位という「見た目秩序」、コミュ力高いほうが偉いという「コミュ能力秩序」などなどから構成されているという。
そんな「スポーツできる奴がとにかく偉い」世界で、私は何をしてもダメな子どもだった。よって、中学の部活でも散々な目にあったのだが、嫌だったのは、顧問教師の暴力や上級生・同級生・下級生からのいじめに加え、「精神論」的なしごきがあったことである。
今となっては信じられないが、私が中学生だった80年代後半、「部活中に水を飲む」ことは絶対に御法度だった。真夏の炎天下、数キロのマラソンをした後でも、閉め切った体育館で汗だくで練習に励んだ後でも禁止。我慢できなくなった者にのみ、「水を口に含んで吐き出す」ことだけは認められていたが、その時は「先輩」が、隣で水を飲み込んでいないかチェックするという徹底ぶりだった。
今でこそ「ブラック部活」という言葉が生まれ、熱中症対策として水分補給が推奨されているが、当時、学校の部活は無法地帯だったのだ。
そんなこんなを思い出していて、なぜ、自分が体育会系の価値観が恐ろしいのか、わかった気がした。上記のような「意味のない精神論で人を苦しめるやり方」は、学校の部活のみならず、未だにこの社会で幅をきかせているからだ。
例えば一部の企業社会にもそれはある。業務の遂行にまったく関係ない部分で、上司が部下に「いかに言うことを聞くか、自分に忠誠を誓っているか、耐え抜いたか」を計るために、苦しいことを強いる悪しき慣習は未だに残っている。過労死や過労自殺の取材をしているとよくわかる。必ずと言っていいほど「無意味なしごき」がそこにはあり、それが本人を追いつめたり、際限ない長時間労働につながっていたりするからだ。
昨年は電通社員の自殺が注目されたが、91年に自殺した電通社員の男性は、宴席で「靴に注いだビールを飲まされる」という悪質なハラスメントを受けていた。そういえば、私の部活でも「精神的に強くなるため、便器に落としたペンを素手で拾う」というバカげたことが行われていた。幸い、私の前の代でそれは終わったが、そんなことをしてバレーボールが上手くなるわけがないし、チームが強くなるわけがない。
無意味な精神論は、無駄なだけでなく有害である。
「自分はあれだけのことに耐えたのだから今の成功がある」と思うのは、「成功バイアス」というらしい。たまにスポーツ選手などが「体罰に耐えたから今の自分がある」などと暴力を肯定しちゃったりするが、一種の洗脳なのだそうだ。
辛すぎたから自己防衛で自身を騙し続けている大人が、「体罰」を容認する発言をする。それが社会的な影響力を持つ。はっきり言って、悪夢である。
さて、そんな私の中学時代は、部活以外でも体育会系「精神論」が蔓延していた。全校集会での「整列」や、体育祭での「行進」などに教師たちが異様なほど熱心で、生徒の父母たちからは「軍隊のよう」と苦情が出るほどだった。そして部活でも教室でも、恐ろしいほどに体罰がまかり通り、教師たちは「全員並んで歯を食いしばれー!」と、戦争ものの漫画に登場する憲兵のように、生徒の顔を日常的に張り倒していたのである。宿題を忘れたとか、忘れ物をしたとか、そんな理由で。
そう、体育会系精神論を突き詰めると、そしてその価値観がどこから来たのか考えると、戦争とか軍隊とか、どうしてもそっち系に行き着くのだ。だからこそ、「戦いの勝利」の足手まといになる人間は、徹底的にいじめ抜いてもいいことになる。
そのうえ、「精神論」は後先を考えない。科学的根拠も関係ない。「とにかく耐え抜いて気合いで乗り切れ!」と、あまりにも雑に人を追い詰める。ちなみに、太平洋戦争の戦死者の半数以上の死因は餓死であるわけだが、ここにもその「気合い至上主義の犯罪性」が浮かび上がる。
それなのに、やはり今もこの国には悪しき精神論が蔓延している。「企業戦士」「経済戦争」「24時間戦えますか」という言葉が使われなくなったとしても、毎年多くの人が過労死・過労自殺に追い詰められている。
厚生労働省によると、2015年度に過労死で労災認定された人は96人。過労自殺(未遂を含む)は93人。また警察庁の統計を見れば、15年に「勤務問題」で自殺した人は2159人。
そんな現実から、多くの人が目を逸らしている。職場の誰かが明らかに過労で心を病み始めているのに見て見ぬふりをし、満員電車では体調の悪そうな人を見て見ぬふりをし、取引先に無茶な要求をする上司を見て見ぬふりをする。そうして何もかもシャットダウンするように、スマホのゲームに熱中する。
イダ氏の本には、こんな記述がある。
「競争社会、差別社会、管理社会でまともにそれを受信して反応していたら精神は持たないので、傷つかないように、壊れないように、現代人の多くは、自分に対しても他者に対しても精神を鈍磨させている。それは今の教育やメディアの結果でもある。ナチスのユダヤ人収容所で多くの人は何を見ても何も感じないように、無感動、無関心、無感覚になったという(フランクルはこれを、心の装甲、文化的冬眠という)が、現代人もそれと似た状況となっている」
文化的冬眠。
確かにそれは、この社会を生きる一つの作法になってしまっている。
フランクル
本名ヴィクトール・フランクル。精神科医、心理学者。1905年、オーストラリア生まれ。主な著書にナチス・ドイツの強制収容所での体験を記した『夜と霧』がある。