女が認められるためには、男並みに働かないといけない、男より何倍も努力しないといけない――。
理不尽だと思うけれど、そんな言葉をこれまで多く聞いてきた。
私自身もその手の言葉に追い立てられてきた一人だ。
が、時々組織の中で苦しむ女性から、「フリーランスだからいいよね」と言われることもある。冒頭の言葉は、あくまでも会社などの「組織」にいる女性がぶつかる壁、という前提があるようなのだ。
しかし、本当にそうだろうか。なぜなら、私自身も「男並み」のレールの上にいたという自覚があるからだ。というか、それ以外のレールなんて最初からなかったし、そうしないと生き残れないという暗黙の了解があった。だからこそ、女にまつわる選択を無意識に、それが当然だと思って捨ててきたという自覚がある。それは現在40代後半の私が単身で、子どもがいないということからも明らかだろう。もし、今の仕事をしていなければ。そんなふうにふと思うことがある。
そんな私の事例も含め、「異次元の少子化対策」や「子ども産んだら奨学金減免」などが話題の今、「この国で子どもを持つ/持たない」について考えたい。
その前に書いておきたいのは、「女枠」について。
例えば昨今、ジェンダーに対する世間の目が厳しくなったため、「イベントをするのであれば半分は女性に」とか「執筆者の半分も女性でないと」といった場面が多々ある。要は「女」という属性だけで頭数として必要とされることがあるのだ。
で、そういうことを「突然天から降り注いだ災害」のように思っている人などは、なんの悪気もなく、「最近は女性も呼ばないとうるさく言われるから呼びました、雨宮処凛さんです」などという紹介の仕方をしてくれて登壇の瞬間から心が折れそうになるのだが、まぁ、そんなふうな「需要」を私は「女枠」と呼んでいる。
こういうことについて「女というだけで得をしている」という意見もあるようだが、これまであらゆる意思決定や「表」の場を中高年男性が独占していたことが異常だったわけで、そんな話をするとわかってもらえることは多くなった。
とまぁ、ここまではよくある話なのだが、「女枠」として採用されたとしても、現場は「男並み」がデフォルト。「子育て中の女性」なんかは絶対に想定されていないよな、と思うことはよくある。
例えば私は取材で全国各地に行くことが多い。そういう場合、記者や編集者、カメラマンなどと同行するのだが、立て込んでいる時だと1週間のうち2度、同じメンツで取材旅行ということもある。
この時点で、まずケアする相手(子どもや介護・見守りが必要な高齢者や病人)がいる人は性別関係なく絶対に無理だ。
また、週のほとんどが取材旅行だと、地味に大変なのが洗濯。取材に着ていった衣類を洗い、また次の取材に備えた荷造りをする。撮影もあるので服の系統がかぶらないことや、現場に合わせたものにしなければいけない。まぁこれは大した労力ではないのだが、ふとした会話から、同行する男性陣はこのようなことを妻にやってもらっていることがわかったりする。そんな時、「ああ、身の回りのことは妻にやってもらうのが前提だからこういうスケジュールになってるんだな」と思うことはある。
週の大半を不在にしていると、洗濯以外もやることは山積みだ。
たまった仕事とメール返信、家事。それだけでなく届いていた郵便物の整理をし、不在連絡票を処理する等々。そして不在の間、シッターさんや友人にお世話になっていた猫の世話をし、体調が悪ければ病院にも連れていかなければならない。そんな時ふと、妻が全部やってくれる系の男性は、「溜まった仕事」しかしなくていいんだよなと思ったりする。
また、たまに「日帰りでも行けたのでは?」という日程のこともある。夜の宴会のために1泊となっているケースだ。私自身、お酒の場は好きなので親しい取材チームとの懇親は至福の時間であり、またそんな場での会話によって新たな企画が生まれたりするのだが、やはり子育て中の人には不利だよな、と思う。そして結局、いろんなことは力を持った男性との飲みニケーションで決まる。フリーランスと言えど、この現実からは決して自由ではない。
というか、今書きながら、気づいた。これまで取材旅行を共にしてきた99%が男性だと。
このような世界で23年生きてきて、25歳でデビューした私は48歳。
23年間、いつ仕事にあぶれるか常に崖っぷちの気持ちで、常に焦燥感に駆られていた。そんな中、仕事ができない期間が生まれる「出産」など夢のまた夢、成層圏のはるか彼方にあるものだった。子育てしながらでは、仕事が限られる可能性も大いにある。そんなリスクを背負うことなどどうしてできるだろう。しかも需要がなくなれば消えるのがフリーランスの物書きなのだ。
しかし、同業者でも産む人は産む。「○○さんは産休中らしいよ」「○○さん、育休中みたい」などの話を耳にしたことは何度かある。しかし、噂になる産休・育休中の同業女性たちはいずれも超がつく売れっ子ばかり。「あの人だったらできるだろう」という感想しか持てなかった。それに比べて私は、と思いそうになると、いろんな感情に蓋をした。具体的に、いつ頃出産したかったとかそういう機会があったとかではまったくないけれど、バブル崩壊後に社会に出た就職氷河期世代でもある私は、出産や子育てのハードルの高さを肌身にしみて感じていた世代でもある。20代前半のフリーターの時点で、地方出身者が子どもを産めるのは「正社員で高収入の夫がいる上、義実家が東京もしくは親が上京してくるなど環境が整った人」でないと無理ということはわかっていた。無理でなくとも、それがどれほど茨の道であるかを。そんな茨の道を選んだ同世代が子どもを持った果てに虐待などで逮捕されるニュースをどれだけ見ただろう。もし、自分が妊娠なんかしてしまったら、全国に犯罪者として顔を晒されるんだろうな。そう漠然と思っていた。妊娠=逮捕という思考回路がもうおかしいけれど、それだけ「無理ゲー」だったのだ。
時々、ふと思う。もし、デビューしたての頃、私に子どもがいたら。しかも頼れる人のいないシングルマザーだったら。「子持ち」だと仕事が減ると思って隠したかもしれないと。そうして仕事相手に隠したまま、とにかく実績が欲しいから、何日間も家を空けるような仕事だって受けたかもしれないな、と。その先のことは、怖くて考えられない。だけど、幼い子どもがシングルマザーに放置されて亡くなったなんてニュースを見るたびに、ほんの少しのボタンのかけ違いで、自分だってそっち側にいたかもしれないと思うのだ。