最初の頃はそんな彼ら彼女らに反発を覚えた。だってリトルひろゆきたちは、当時の私にとっての神だった大槻ケンヂまでこき下ろすのだ。もちろん彼らも大槻ケンヂが大好きなのだが、「神」と崇めるようなスタンスは痛く、好きだからこそ批評してナンボということらしかった。またそうすることによって、自分の知識の深さを自慢したいという動機もあるようだった。とにかく彼ら彼女らはすべてを上から目線で語っていた。
「ものすごく辛辣に社会批評をする童貞と処女の集まり」
本当に童貞・処女かは別にして、私は心の中で彼ら彼女らをそう呼んでいた。初めて関わったタイプだったけれど、リトルひろゆきたちとつるむのは楽しかった。どんなに口汚く何かを嘲笑しても、基本的にはみんな気が弱く、いい人なのだ。だから人としてはものすごく付き合いやすい。「金貸して」とか「奢って」なんて絶対言ってこないし、遅刻はしないし割り勘は1円単位まできっちりしてるし。
そんな環境に馴染んでくると、私もいっぱしに有名人を批判するようになっていた。初めてそうした時の快感は今も覚えている。何もしてないのに、自分がものすごく偉くなった気がした。
それからは、上から目線で何かを批評するのが当たり前のことになった。時々「え、なんなのこいつ偉そうに」という目で見られたけど、そんなことは気にならなかった。評論家気取りの気持ちよさの方が勝るからだ。
自分がそんな時期を過ごしたからこそ、思う。嘲笑・冷笑は、踏みつけられている人たちが、唯一くらいに、何もせずとも「階級上昇」の気分を味わえる魔法なのだと。あの時期、私は完全に、この行為の依存症になっていたと思う。だけど、そうしないと生きられなかった。
一方で、今と違うのは、みんな「こき下ろす」ためにめちゃくちゃ勉強していたということだ。対象の本を読むのはもちろん、雑誌のインタビューやテレビ、ラジオでの発言などを必死にチェックしていた。批評するために、膨大な時間と労力を使っていたのだ。だからこそ一定数、説得力はあったし、話の内容は決して不毛ではなかった。私のいろんな知識はここで培われた部分も大きい。
もうひとつ今と違うのは、ネットがないということ。私たちはリアルで出会い、リアルで話していた。
それではなぜ、そんな場所から離れたのか。
一言で言うと「飽きた」からである。一時期は確実に救われていたものの、上から目線で有名人を批判したところでどこにも辿り着けないし何にもなれない。唇の端を歪めて意地悪に笑うことにも嫌気がさしていた。他人へのダメ出しと嘲笑で人生を終わらせたくない。完全燃焼したい。そう思った。
その結果、私は22歳で右翼団体に入会する。極端すぎるっちゃ極端すぎるが、とにかく冷笑の反対側に突き抜けたかった。
結局、その右翼団体も2年でやめた。もともと動機が「完全燃焼したい」だけだったのだ。そうして25歳で物書きデビューしたのだが、今もふと、あの時デビューしていなかったら何をしていただろうと時々思う。
生活費はアルバイトで稼ぐしかないのでバイトしつつ、居場所のなさを埋めるため右翼団体に戻っていたかもしれないし、リトルひろゆきたちとずーっと誰かを批評していたかもしれない。そうしてネットの普及と同時に2ちゃんねるの「祭り」なんかに参加していたかもしれないし、今だったらSNSの炎上に嬉々として参加し、誰かをブッ叩いていたかもしれないとさえ思う。それだけではない。ひろゆき氏の辺野古のTweetに「いいね」した28万人の一人になっていたかもしれない。
90年代からネット掲示板でのコミュニケーションを注視してきたという成蹊大学教授の伊藤昌亮氏は、雑誌『世界』2023年3月号(岩波書店)に掲載した「ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」にて、彼を「『ダメな人』のための『優しいネオリベ』」と書いている。以下、引用だ。
〈彼が生まれ育った東京・赤羽の団地には、「社会の底辺と呼ばれる人たち」がたくさんいたという。「生活保護の大人」「子ども部屋おじさん」「ニート」「うつ病の人」などだ〉
〈昨今の若者は「いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前」だという「成功パターン」から外れると、「もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない」などと思い込みがちだが、しかしこうした「ダメな人」は「太古からずっといた」のだから、気に病む必要はない。むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスを掴む人」になるべきだと彼は言う〉
〈というのもこれまでの日本では、「ダメな人」は「横並び」の体制についていくことができなかったが、しかし昨今では、「会社で働けないタイプの人」でも「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」ことが可能になったため、プログラマーやクリエイターとして成功することができる。実際に彼自身も「コミュ障」だったが、「プログラミングという武器がある」ことでうまくいったという〉
これを読んで、私は彼の人気の理由に深く納得した。
だって、「どんなに努力しても一部の人は絶対に報われない社会」になってもう30年くらい経つのだ。そんな中、「報われない社会」に放り出された第1世代が私やひろゆき氏と同世代のロスジェネである。
が、どれだけ貧乏くじを引かされようとも、ロスジェネもゆとり世代もさとり世代もミレニアル世代もZ世代も「みんなで連帯して運動して社会を変えよう」なんてことにはなっていない。周りを見渡せば、30年近く非正規で働きながら今も「自分だけ勝ち抜こう」と夢見ている人たちがいる。そんなロスジェネからZ世代までに顕著なのは、「経営者マインド」をナチュラルに搭載していることだ。