さて、こんなふうなやり方で今の仕事をなんとか続けているのだが、何がきっかけになったのか、私は理解していなかった。しかし、この原稿を書くにあたっていろいろ考え、気づいた。それは私の師匠的な存在である、故・見沢知廉(みさわ・ちれん)氏の影響だと。
ちなみに見沢知廉氏とは1990年代後半から2000年代にかけて活躍した作家。1959年生まれ。10代の頃から左翼活動に参加するも、20代前半で右翼に転向し、新右翼の統一戦線義勇軍にてイギリス大使館火炎瓶ゲリラ事件やスパイ粛清事件(殺人事件)を起こして12年の獄中生活を送る。獄中で執筆した小説が新日本文学賞の佳作となったことをきっかけに、出所後、作家デビュー。96年に出版された獄中手記の『囚人狂時代』(ザ・マサダ、1996年/新潮社、98年)はベストセラーとなり、97年に発表した『調律の帝国』(新潮社、1997年)は三島賞候補になるなど目覚ましい活躍をしていた。
しかし、2005年、マンション8階から飛び降りて死亡。享年46。
そんな見沢さんとの出会いは1990年代後半、彼のイベントに行ったことがきっかけだ。もともと一読者だったのだが、当時の私が生きづらくてリストカットしていることなどを話すと「生きづらい奴は革命家になるしかない」と極端なことを言って私に「右翼・左翼についての英才教育」を施し、そのまま右翼団体にブチ込み(2年で脱退)、物書きとなるきっかけを作ってくれた人である。
そんな見沢さんは晩年、どんどん心を病んでいくのだが、その背景にあったのは「命懸けで文学と格闘したこと」だと私は思っている。自らの「殺人犯」という汚名をそそぐには、大きな文学賞を取るしかないという狂気のような渇望。そのため、ある純文学誌に掲載する小説を、編集者に指摘されるまま何十回、何百回と書き直していた。このことは死後、「それが見沢さんを追い詰めたのでは」と言われたが、詳細はわからない。また、12年にわたる獄中生活が彼の心身を蝕んでいたということも大きい。特に獄中でハンストし、八王子医療刑務所に入れられて薬漬けにされたという経験は心身に大きなダメージを残していた。
亡くなる数年前からは体調を崩し、あらゆるイベントなどのドタキャンが相次いでいた。そのことでまた自身を責め、小指2本を切断する自傷行為をして入院したりもした。そうして見沢さんは少しずつ壊れていき、マンションから飛び降りてしまった。
見沢さんが亡くなった時、私は30歳。物書きデビューして5年目になっていた。
この時、私は思った。見沢さんみたいに命懸けでやっていたら、死ぬかもしれないのだと。真面目に逃げずに文学と格闘した果てに壊れ、死んだ見沢さんを見て、自らを守る方法を考えた。その結果、無意識にやっていたのがここまで書いてきたようなことなのだ。見沢さんだって、死ぬくらいだったらもう何もかも「やーめた」と投げ出せばよかったのだ。ドタキャンに罪悪感なんて感じる必要、なかったのだ。もっとテキトーに生きてよかったのだ。
それ以外にも、見沢さんが教えてくれたことはある。
例えば「本がちょっと売れたくらいで生活を変えない」というのも見沢さんから反面教師的に学んだことだ。彼は出所後すぐに獄中手記がベストセラーになったのだが、20代前半で刑務所入りした見沢さんは社会経験がないに等しく、12年間の獄中生活で金銭感覚もおかしくなっていた(というか現金を使わない生活が12年間続いたわけである)。そんな人間に大金が転がり込んできたら。全部使うに決まってるのだ。
結果、どうなるか。大金が入った翌年には膨大な税金を請求されるという事実を知らなかった見沢さんは大変な目に遭ったようである。
晩年、見沢さんは体調不良から仕事もできず経済的にも厳しい状況だったのだが、誰か税金のことを教えてくれていたら……と思わずにはいられない。そうして私は、そんな見沢さんの「失敗」を間近に見ていたことによって、同じ轍を踏まずに済んだのだ。
そう思うと、私は見沢さんという死者によって生かされているのだと思う。そしてそんな師匠のいなかった見沢さんは、どれほど大変だっただろうとも思う。作家の「先輩」のいない中、刑務所から野に放たれた見沢さん。JRの自動改札さえ初めて見るような状態だったのだから(刑務所に入った時は80年代)、生活するだけで精一杯だったろう。そこから急に作家デビューなんかして、どれほどの苦労と苦悩があっただろう。
さて、見沢さんを見てきたからこそ、もうひとつ実践していることがある。それは仕事や肩書き抜きの居場所を作っておくということだ。
例えば私はバンギャなので、バンギャ友人とは肩書きも何も関係なく、ひたすら「推し」の話で朝方まで盛り上がることができる。
また、私は東京・高円寺の愉快な貧乏人コミュニティ「素人の乱」界隈の人と路上で飲酒する機会が多いのだが、ここに集うのは「月収5万円でむちゃくちゃ楽しく生きてる50代」とかばかりなので、彼ら彼女らと会うと「ちゃんと働いて稼いで納税しよう」とか、そういう気が一切なくなる。そうして「人生で一番大事なのは飲酒・交流・バカ話ではないか」と正気に戻ることができるのだ。
ちなみにこの界隈の人は世界各国の貧乏人とワールドワイドに繋がっており、例えば10年くらい前、釜山に住む韓国の友人の家が突然爆発した際には「カンパ」のための飲み会が開かれた。「家爆発」だけでなく、「素人の乱」界隈では、なんだかんだと困ってる人のための「カンパ飲み会」がしょっちゅう開かれていて、当たり前に「助け合い」が根付いている。コロナ禍初期には中国・武漢の友人たちを支援する飲み会も開催されたし、最近は電気代が払えない友人のための「電気代集めBAR」も開催されている。もう国も行政も信用してないので貧乏人同士助け合おうという精神が当たり前に根付いており、それを実践しているのだ。