が、上には上がいる。ブラジルのマイシ川に住む狩猟採集民族ピダハンには、そもそも「ありがとう」という言葉すらないという。では、何かもらったりしたらなんと言うのかといえば、「これでいい」「これで大丈夫」というのだから、近所に住んでたら絶対トラブルになりそうだが、なんというか、自由だ。
そして強調しておきたいのは、プナンにも「ありがとう」という言葉自体がないということ。
そんなプナンには、「ビッグマン」という一時的なリーダーがいるという。どんな人がなれるのかというと、気前のいい人。率先して周囲の人に分け与える人物がなれるというのだから面白い。「ケチはダメ」「寛大であるべき」を実践する人物こそがふさわしいというのだ。
人にもっとも分け与える人物がリーダー。そんな世界では、富が一部に集中することはありえない。格差など生まれようがないのだ。
しかし、そんなビッグマンが独占欲を見せたりすると、人々はそのビッグマンに見切りをつけ、彼のもとから離れていくのだという。そうして別の気前のいい人物がビッグマンとなる。
ここまで読んで、「なんと素晴らしいシステム!」と叫び出しそうになった。日本の政治もこれを踏襲すれば、決して裏金問題など起こらないではないか。というか、権力と富の関係において、これほど合理的かつ透明性の高いやり方があるだろうか。権力が富を独占しない方法があらかじめ完成しているのだ。もちろん、世襲制もない。
学校に行かず、一見民主主義とは程遠いように見えるプナン。だが、その姿勢は思い切り民主主義を体現しているように思える。
著者はそんなプナンのあり方について、〈なんと儚い、最小限の権力であることでしょうか!〉と書く。
さて、とうとう「心の病」についてだ。
ここまでプナンをはじめとしてヘヤー・インディアンやエスキモーなどの事例を紹介してきたが、どれほど現代文明と距離を置いた暮らしをしていようと、「心の病」は多くの社会にみられるという。
例えば焼畑稲作民カリスの社会には「ラオラオ」「マウノ」という様態があり、「ラオラオ」は「マウノ」への移行期。 マウノになると「情緒不安定で突然暴れて人を傷つけたり、来る日も来る日も道に石を積み上げたりといった行動」を見せるようになるという。
また、「北極ヒステリー」という言葉もある。イヌイット語で「ピブロクトク」と呼ばれるこの状態になると、自分の衣服を引き裂き、他人といざこざを起こし、雪原に身を投げ出し、鳥や動物の鳴き真似をするそうだ。北極ヒステリーは「文化特異性障害」といわれ、原因として、「限られた資源をめぐる競争とその社会的な葛藤という社会病理的な仮説」「カルシウムの摂取不足と日照の欠乏によるビタミンDの低下によるものとする生化学的な仮説」「日周リズムの変化の身体や行動への変化という生理学的な仮説」などがあるらしい。
が、奥野氏の見る限り、プナンは「心の病を抱えている人が存在しない社会」だという。
なぜなのか。プナンとともに暮らした経験のある奥野氏は以下のように書く。
〈私自身の経験から言えば、プナンは、独りで思い悩んだり、あれこれ考えあぐねたりするようなことがありません。のべつ誰かが「私」の傍にいて、「私」のことを気にかけています。ヒゲイノシシが獲れたら、夜の三時であろうが四時であろうが叩き起こされ、食事をするように強いられます。自分のことについて思い悩む暇がないほど、個が集団に溶け込んでいるのです〉
この「一人になれない」という問題、我が国では、それが忌み嫌われてきた歴史がある。濃厚すぎる村社会や家父長制の中で抑圧されて心を病む人もいれば、古くは「村八分」という形の排除があった。そうして個人主義がある程度市民権を得た今でも、この国の多くの人の悩みのタネは「人間関係」だ。
が、プナンはそれだけ濃厚な人間関係の中にいながらも、心の病とは無縁なわけである。ここに何か、重要なヒントが隠れてる気がする。
読み進めていて思ったのは、大自然の中で生きるプナンにとって、「人間」は特別な存在ではないのかもしれない、ということだ。
例えばプナンは森の中で獲物となるテナガザルを見つけると、ある鳥がテナガザルを助けるために囀(さえず)ると考えているという。鳥は人間を見て、猿に危険を知らせると考えられているのだ。
動物と人間は対等というか、このように、動物は考えたり精神を持つ存在だと捉える先住民は多いという。
それだけではない。アメリカ北西部に住む先住民トリンギットは、氷河は音を聴くことができると考えているそうだ。よって、氷河の前では言葉に気をつけなければならないと言われている。
一方、川や山に人格を認めてきた先住民も少なくない。よって開発の話が持ち上がると反対するのだが、反対デモに参加する理由が「山の怒りを鎮めるため」だったりするから、日本に住む私たちがデモに参加するのとは次元が違う。
そうしてそれらの行動の結果、2017年にニュージーランド政府はワンガヌイ川に法人格を認め、インドでもガンジス川とヤムナ川の法人格が認められ、コロンビアでも山に対して人格を認める法律が制定されているというのだから、なんというか、ああ、私って小さな範囲の常識の中でそれが世界だと思って生きてたんだなぁ……と世界の広さにため息が出てくる。
同時に、この国の「心の病」の原因のひとつもうっすらと浮かび上がる気がする。
思えば私自身、山や川や野生の動物と触れ合う機会などまったくない。あったとしてもそれは旅先なんかでの話で、絶対にこちらを脅かさないコンテンツとしての自然だ。そうして普段は東京という、コンクリートに囲まれた人工的な場所に住んでいる。そういう場所では「人間」だけがコミュニケーションの対象となる。よって人間の存在が必要以上に大きくなり、だからこそ、「人間関係」の悩みばかりが深まってしまう。人間に評価され、認められなければにっちもさっちもいかないという、ものすごく不自然な場所にいる。
だけど私たちは「人間関係」だけでなく、もっと「動物関係」や「自然関係」で悩んだっていいのだ。悩まずとも、そちらとコミュニケーションをもっと取るべきなのではないだろうか。