しかし、『貧困と脳』を読んで、背筋がすっと寒くなった。「脳性疲労」について書かれていた部分が、見沢さんの症状とまったく同じだったからだ。
あの頃の見沢さんは「甘えていた」わけではなくて、本当にギリギリの状態だったのだ。
思えば、当時の見沢さんは「脳性疲労」の症状が現れて当然の状態だった。
12年にわたる獄中生活と、そこで受けた虐待の数々によって蝕まれていた心身。シャバと隔絶された生活を送った果てに突然「売れっ子作家」となり多忙を極めた日々。文学賞への渇望とプレッシャー。拘禁症の後遺症とフラッシュバックなどなど。
まずは出所後、少し休みながらリハビリすることが必要だったのに、いきなりフルスロットルしてしまったのだ。
本書には、鈴木氏が経験した「脳性疲労」の症状が書かれている。
猛烈に頭が重だるくなり、無理に頭を使い続けると読解、他者との対話など「脳を使うあらゆること」の崩壊が訪れる。文章を読むことができず、人の話も理解できない。自身の言葉を組み立てることも難しく、そうこうするうちに顔の筋肉がこわばり、手や膝に力が入らず震え、立っていればしゃがみ込みそうになる一一。
この描写を読んで、晩年の見沢さんとのあまりの一致に愕然とした。思えば晩年の彼はほぼ寝たきりのような生活で、仕事もできずに生活も困窮していた。また、もともと家事能力もなかったので、おそらく食事もマトモに取れていなかったはずだ。一番最後に会った時の見沢さんは、頭蓋骨の形がわかるほどに痩せていた。生まれて初めて「死相」というものを目の当たりにした私は、「この人、もう長くないな」とひどく冷静に思っていた。
『貧困と脳』を読んで、私は約束を破ってばかりの見沢さんに冷たくあたったことを心から後悔した。そうか、そうだったのか、そうだよね、むちゃくちゃつらそうだったもんね。
謝っても謝りたりないけれど、見沢さんが死んでもう20年も経つけれど、それでも今、「ごめんなさい」と頭を下げたい。
そうして、改めて、思う。
あなたや私の周りの「サボっている」「怠けている」ようにしか見えない人も、もしかしたら「不自由な脳」を抱えているのかもしれないと。決してそれは「自己責任」なんかではないのかもしれないと。
多くの気づきを与えてくれた一冊に、感謝したい。