少し前、新潟で「こわれ者の祭典」というイベントに出演した。
「こわれ者の祭典」とは、摂食障害や醜形恐怖、アルコール依存症、強迫神経症などさまざまな「生きづらさ」を抱えてきた人たちが、それをどう克服してきたかを語り、パフォーマンスで表現するというイベントだ。
これだけ書くと、なんだかドロドロに暗いイベントを想像するかもしれないが、基本はお笑いイベント。引きこもり時代のどうしようもなく惨めな日々や、閉鎖病棟への入院体験、過食をやめられなくなった時の、まるで「びっくり人間」のような大食い記録などを自虐的な「ネタ」として語り、会場はいつも爆笑に包まれる。
代表は元アルコール依存で、精神科への入退院を繰り返してきたという作家の月乃光司氏、40代。彼が率いる「こわれ者」メンバーの中には、家族から暴力を受けて育ってきたという20代の女の子もいれば、「頭が悪すぎる」という理由で「親に山に捨てられた」経験がある30代男性もいる。いつも女装している元暴走族メンバーもいれば、脳性まひを抱える30代男性2人組が「脳性マヒブラザーズ」という、お笑いコンビを結成していたりする。
イベントにやってくる人々も、それぞれの生きづらさを抱えている。引きこもりだったり、リストカットがやめられなかったり。そんな人たちを前に、こわれ者メンバーたちは自らの体験をあけすけに語り、笑いを取る。そして客席は時に涙に濡れる。そんなイベントが「こわれ者の祭典」。ちなみに私は、この軍団の「名誉会長」でもある。
そんな「こわれ者の祭典」が10周年を迎えるということで、記念イベントが彼らの拠点である新潟で行われたのだ。イベントは大盛り上がりで終了し、その後、お客さんを交えての交流会があった。参加してくれたのは、若い女の子がほとんど。そこでみんなと話していると、一人の女の子が突然、泣き出した。摂食障害だという可愛らしい女の子は、肩をふるわせながら嗚咽(おえつ)をこらえ、そして絞り出すように、叫んだ。
「私は、私はウンコ製造機なんです!」
一瞬、みんなぽかんとした顔をした。交流会の会場を、なんとも言えない沈黙が包んだ。しかし、次の瞬間、私は叫んでいた。
「わかる!」と。
ウンコ製造機。汚い言葉で申し訳ないが、20代の頃、私もまったく同じ言葉で自分を責め続けていたからである。
当時の私はフリーターで、しょっちゅうバイトをクビになり、そのたびに自信をなくし、リストカットばかりしているうえに貧乏で、未来がまったく見えなかった。自殺願望に取りつかれ、一人暮らしの部屋に引きこもる日々。収入はないので、親からの仕送りだけが頼りの生活。こんなことじゃいけない、とわかってるのに、身体がどうにも動かない。そんな時、思うのだ。
働くこともできず、お金も稼げない私は、生きていても親に迷惑をかけるばかりで何一つ生産していない。こんな、こんな私って、「ウンコ製造機」じゃないか!!
摂食障害の女の子は、それから泣きながらいろんなことを話してくれた。摂食障害になったきっかけは、やせたい、きれいになりたい、という気持ちから始めたダイエットだったこと。だけど一度始めてしまうと、食べることが怖くなって、何も食べられなくなってしまったこと。外に出ると、街を歩くすべての女の子たちが、自分よりきれいで可愛く見えてしまうこと。それでまた、深く落ち込んでしまうこと。
ああ、わかる……。心の底から、思った。
私自身、摂食障害の経験はないが、長らく生きづらさをこじらせてきた。その頃は、とにかく生きるのが下手で不器用な自分が嫌でたまらなくて、そんな時に外に出ると、街行く自分と同世代の女の子たちがやたらキラキラして見えて楽しそうで、私のような「生きづらさ」とは無縁に思えて、そのたびに深い自己嫌悪に陥る、という七面倒くさいことを繰り返してきた。
そこまで生きづらさをこじらせていなくても、「他の女の子と自分を比較して落ち込む」という経験は誰にでもあるはずだ。そして、少なくない女性を苦しめる摂食障害の背景には、「女の子はきれいで可愛くて細くなくちゃいけない」といったような、美醜にかかわる強迫観念が横たわっている。
というか、すべての女性が生まれたその瞬間から、「顔面偏差値」といった、どうしようもないものに苦しめられてきたことは誰もが認めるところだろう。
そう、女は常に、「美醜問題」に追いつめられている。常に、自分では意識していなくても、24時間365日、それは私たちにつきまとっている。
例えば、すっぴんでコンビニに行った時と、フルメイクでコンビニに行った時の店員の態度の違いなどからも、そのことを否応なく突きつけられる。同じ店員なのに、こうも変われるのか、というほどに態度が違うのだ。ちなみに私の「メイク前」「メイク後」も、「こうも変われるのか」というほどに別人だということも付け加えておこう。これは何も「メイク後」がいいということではなく、すっぴんが、テロ級にひどいのだ。
美醜問題のトラップは、日常のいたるところに仕掛けられている。街を歩けば、テレビをつければ、自分より可愛くてきれいで細い女の子たちが山ほどいる。女性誌を開けば、完璧な肌を持つ完璧に美しいモデルが、完璧な笑顔で笑っている。女性誌を一冊読み終える頃には、「美しくなければ生きる資格などない」という、ある種暴力的な価値観に心が折れる一歩手前。女地獄における、もっともスタンタードな苦しみである。
この問題への対処法を、悲しいことに私は知らない。
しかし、最近、無理やり編み出した秘策がある。それは「比較しない」ということだ。
37年生きてきて気づいたこと。それは、少なくない苦しみが、「別にしなくてもいい比較をわざわざしてしまう」ことに端を発しているということだ。以来、私はとにかく「比較地獄」にはハマらないようにしている。「地獄」も名づければ、対処法が編み出せる。ということで、苦しみが完璧になくなるわけではないが、美醜問題でつまずきそうになったら、「比較しない、比較しない……」と、ブツブツつぶやいてみてはいかがだろうか。
次回は2013年1月10日(木)、テーマは「なにフェチですか?」の予定です。
女地獄における比較地獄
(作家、活動家)
2012/12/06