「地方創生」と並んで、安倍晋三内閣がアベノミクス成長戦略の一つとして掲げ、2014年国会の目玉政策だった法案だ。が、同年11月「そんなものはどうでもいいのだ」とばかりに、突然に衆議院が解散となった。
女性の活躍に関する政策をめぐっては様々なメディアでも話題となり、私も対談などに呼ばれて発言したのだが、それらすべてが「徒労」で終わったような気分でいっぱいである。といって女性の活躍推進法案が正式に成立したら、全女性に「輝く未来が訪れる」などと期待していたわけでもないのだが……。あれほど注目されたのに、あっさりとスルーされてしまうとは、なんというか納得いかないものが残る。
そんな衆議院解散の後にやってくるのは総選挙。本エッセーがリリースされた直後の14年12月14日が投票日である。さて、これを読んでいるあなたは「政治」に興味・関心がある方だろうか?
私はと言えば、はたからは間違いなく「政治に興味・関心がある」と思われている。何しろ、日本における格差や労働・貧困問題に取り組んではや8年。「反貧困ネットワーク」という団体の副代表をつとめ(14年夏からは「世話人」となった)、政策提言などをしてきた。
民主党政権時代の09年には、厚生労働省の「ナショナルミニマム研究会」の委員に就任。大臣や官僚をはじめ、大学教授、弁護士といった知識人の方々と、この国の「ナショナルミニマム」(国が国民に対して保障する最低基準のこと。例えば生活保護基準など)について議論し、政策への反映を目指していた。
ここまで書くと、「どこから見ても政治にバリバリ関心がある人」に見えるはずだ。しかし、では本当にそうなのかと自ら問うと、甚だ疑問である。「政治に興味あります!」「みんなも関心を持ちましょう!」と、何か正面切っては言えない自分がいるのだ。
なぜなら「政治」と言われて思い浮かぶのは、面白味のないオッサンや、「おじいさん」と呼んで差しつかえないようなお年寄りの姿ばかり。国会中継なんかを見ていても、多くがはげたオッサンや白髪のオッサンで、意味不明なうえにつまらないことを本当につまらなそうな顔でブツブツしゃべっている。はっきり言って、世の中にはもっとキラキラしてワクワクして、面白いことがたくさんあるのだ。そんな「はげ白髪劇場」みたいな政治にかまってなどいたくない――というのが、私の中にずっとある「正直な気持ち」でもある。
しかし20代初めのある日、ふと気づいたのだ。今の日本って、たぶん政治や社会のこととか、まったく一切全然考えなくても、問題なく生きていけるのでは? と。そのことが、私にはものすごく恐ろしいことに思えた。
それから私はあえて、世の多くの人々から忌み嫌われる「政治」の世界に足を踏み入れることにしてみた。
といっても「政治家の秘書になった」とか、「選挙運動の手伝いをした」とかではない。何しろ20代前半の私は、時の内閣総理大臣の名前すら知らない大馬鹿野郎。無知ゆえに大胆だった私は、右翼と左翼の違いもわからずに、突然右翼団体に入会。同時に元赤軍派など「左翼」と言われる人々との交流も深め、そんなことをしていたら、初の海外旅行で北朝鮮に行く羽目になり、2度目の海外旅行は経済制裁下のイラクと、人生がよくわからない方向に展開し始めた。
1999年のことで、24歳だった。だけど、結果的にはこういった経験で「政治」と自分がつながった。
例えば、日本で報道されている「不気味な国」というイメージを抱いて訪れた北朝鮮では、その印象は大きく変わった。もちろん、外国人が見られるところは限られているけれど、「昭和30年代の古き良き日本」みたいな、素朴な北朝鮮の人たちの「優しさ」に触れた。「独裁国家で可哀想」と、心の中で同情を寄せていた北朝鮮の人に、逆に「日本は資本主義社会なので競争ばかりで可哀想ですね」と同情されたりもした。
こういった経験は、「世界は日本ローカルの常識が通用しない場所なのだ」と私に突きつけるものだった。
イラクでも、衝撃の経験ばかりした。
突然、連れて行かれた小児病院では、がんや白血病、先天性異常の子どもたちが苦しんでいた。イラク人医師は子どもたちを指さして、「劣化ウラン弾の影響」と語った。劣化ウラン弾は、湾岸戦争で初めて実戦に使われた「核や原発のゴミ」を兵器に転用したものである。
アメリカ軍がイラクにバラまいたそんな爆弾によって環境が汚染され、がんや白血病、先天性異常の子どもが激増しているというのだ。日本も支持した湾岸戦争で起きたことを、まったく知らなかった自分を恥じた。
そんな初のイラク行きから2年後の2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きた。この時、日本の報道陣はアメリカ側から得た情報を伝えるだけだった。
しかし、それ以前に私はイラクで「アラブ諸国の反米活動家」たちと多く出会っていた。彼らが「いかにアメリカにひどいことをされてきたか」を語る姿を思い出し、別の角度から「9.11テロ」を考えることができた。
さらに9.11テロの2年後には、イラク戦争が勃発。
「大量破壊兵器の保有」を理由として、アメリカが軍事攻撃を開始しそうな状況に、イラクで出会った人々や小児病院の光景を思い出し、いても立ってもいられずにイラク入りした。開戦1カ月前のことだ。
外務省からは避難勧告が出ていたものの、そんなものは無視。そうして多くのイラクの人々と再会し、首都バグダッドで「ここに爆弾を落とすな!」と連日、反戦デモをした。当時のイラクには、反戦を訴えて世界中の人が集まっていた。外国人がたくさんいると、アメリカだって空爆しづらい。「人間の盾」となるために、多くの人が集まっていたのだ。
しかし、イラク戦争は勃発。開戦前に帰国した私は、仲良くなったイラクの人たちと連絡が取れなくなった。ずっと遠いものだった「戦争」が、ものすごいリアリティーを持って迫ってきた。そうして戦争が始まってすぐ、イラクで会ったある人が、アメリカ軍との銃撃戦の果てに死亡した。
その人は、サダム・フセイン大統領の長男ウダイ・フセイン。初のイラク行きの際、当時「愛国パンクバンド」を組んでいた私は、なぜか現地でライブをした。その模様がテレビ中継され、サダム・フセインがそれを見て喜び、大統領宮殿に招待されてウダイ氏と面会——という、「どこから妄想?」と突っ込みたくなるような経験をしていたのだ。
それまでの人生で出会った中で、おそらく「一番のセレブ」(なんたって大統領の息子)であるウダイ氏の無惨すぎる遺体写真は、見せしめのようにネットにアップされていた。当時14歳だった彼の息子も銃撃戦に参加し、死んだと聞いた。「戦争」は、「会ったことがある人が死ぬもの」に変わった。
一方、北朝鮮がらみでは02年の小泉純一郎内閣総理大臣の訪朝直後に、自宅にガサ入れがあった。日朝会談をきっかけに、何度も北朝鮮に通っていた自分が怪しまれて家宅捜索をくらい、しばらくは「あそこのお宅は北朝鮮の工作員」と噂されて気まずい日々を過ごす——という形で、「政治」や「国際情勢」は、気がつけば私の日常とがっつりつながるものになっていた。
と、そんなふうに「迷ったら常に危ない方、過激な方に行く」という選択をしていたら「政治」に関心を持たざるを得なくなっていたというのが、これまでの経緯である。
ちなみに北朝鮮やイラクに行っていた20代前半、私はフリーターだったのだが、「将来、自分はホームレスになるのでは?」と、本気で不安だった。そうしたら自分が30代になった05年あたりから、本気で同世代がホームレス化。「最悪の予想が的中した」と驚愕し、それを機に格差問題に取り組むようになって今に至るのである。
私のような「政治」との関わり方は極端かもしれないが、まぁ一例だと思ってもらえれば幸いである。が、長らく私は孤独だった。まわりの女友達などに「政治」の話をすると引かれるからである。
しかし、最近、潮目が変わっているのをひしひしと感じる。
14年11月22日、「怒れる大女子会」なるイベントが開催されて参加したのだが、そこには会場に入りきらないほどの女子が集い、政治について熱く語り合ったのだった。
「女子ばかりで、子育てや介護の話じゃなく、政治で盛り上がったのなんて初めて!」
子持ちの友人は、そう言って感激。そう言われれば、恋愛でも美容でもなく「安倍政権」について女子だけで盛り上がるなんて、私にとっても初めての経験だった。このような動きは今、少しずつ広がっている。
例えば、谷口真由美さんが代表代行をつとめる「全日本おばちゃん党」。ヒョウ柄ファッションと飴ちゃんが大好きな大阪の「おばちゃん」が、オッサン政治にNOを突きつけるため、12年に始動。Facebookの会員は1000人を超え、「うちの子もよその子も戦争には出さん!」「ステルスよりも豚まん買うて!」などを合言葉に活動している。スローガンは、「おばちゃんの政治参加が世界を救う!」。
長らく、「政治」は女性を排除してきた。