最初は「自分だけやせるつもり?」「自分だけ英語ペラペラになる気?」「なにポジティブに自分磨きとか始めちゃってんの?」という突っ込みかと思っていたら、違った。
彼ら・彼女らの「どういう企み?」というのは要約すると、「北朝鮮とかイラクとか行っていて、最近はアジアの反戦活動家や反格差の運動などをしている人たちとやたら交流しているあなたが、よりによってボクシングで戦闘能力を上げ、さらには英語を習うなんて、何か国際的なテロ組織などとよからぬことを企んでいるに違いない!」というものだった。
散々な誤解をされるアラフォー女もいたものである。
でも、思った。そういう誤解をされる人間でよかった、と。何か、今までの生き方が間違ってないというか、正しい方向に間違っていることを再確認できたのだった。
さて、そんなボクシングジムだが、なんと週に一度くらいの割合で通っている。年内に行けるかどうかと思っていたのに、もうすでに、結構行っているのだ。何をしているのかというと、体操したり、ジムの人に相手になってもらって弱小パンチを繰り出したり(向こうは完全に受け手なのでこちらは打たれない)、サンドバッグを打ったりだ。
今のところちっともやせていないものの、無心になって身体を動かし、汗だくになっていると、今まで抜けたことのない種類の「毒」が抜けていくのがわかる。しかも、なんの興味もなかったボクシングは一言で言うと殴り合い。サンドバッグは私のような初心者には空しいが、ジムの人に受け手になってもらいながら、へなちょこパンチを繰り出していると、なんというかこう、スカッとするのだ。
それはジムに来ている男性陣も同じようで、会社帰りに寄った感じのオジサンが、獣のようなうなり声を上げながらサンドバッグをブン殴りまくっている姿などを見ていると、「今日、会社で嫌なことあったのかなー」「あれを上司に見立ててるのかもしれない」と妄想が膨らみ、心の中でエールを送っている。
さて、そんなふうに生まれて初めて運動をする日々が始まったわけだが、以前から「生きづらさには運動が効く」と言われていた。私が初めてその言葉を聞いたのは1990年代、まだ20代の頃だ。当時、まわりには私と同じように生きづらさをこじらせ、リストカットやオーバードーズ(過量服薬)などの自傷行為を繰り返す人たちが多くいた。そのほとんどが女子で、日の光や身体を動かすことを嫌うインドア系。当然私もその一人だった。
ある日、そんな「リストカッター界隈」にいた一人の男子が、空手を始めた。
見える場所全部が自傷行為の痕だらけという、かなりハードな状態の男子だった。しかし、青白い顔でため息ばかりついていた彼は、空手を始めるとみるみるうちに顔に生気がみなぎり、目には力が宿ってきた。そうして会うたびに、それまで見たこともないような満面の笑顔で「いやー、空手いいっすよー」と力説するようになったのだ。
傷だらけだった腕には、新しい傷の代わりに筋肉がついていった。気がつけば彼は、いつもファストフード店や居酒屋で集まっては、「死にたい」などと繰り返す私たちの集まりに顔を出すことはなくなっていた。
それは私には、ちょっとした事件だった。なぜなら生きづらさに「効く」のは、いい病院とか、自分に合った薬とか、わかってくれるカウンセラーとか、それ以外にも、「人生の目的ができること」とか、「信頼できる恋人ができること」「何かで成功すること」「ちゃんと必要とされること」といった理由のみ、と思い込んでいたのだ。それが、空手。なんだか、斜め後ろからぶん殴られたような気分になったことを覚えている。
それからも、「とにかく身体を動かして無心になることは、生きづらさにはいい」というような言説は至るところで聞いてきた。そんなことを言う医者もいたし、本にもその手のことが書いてあった。しかし、どっぷりと生きづらさをこじらせてしまう人の多くは、もともとがスポーツなどと無縁の非体育会系。「身体を動かせ」と言われても何をすればいいのかまったくわからず、また私もそうだが、「運動」「体育」などと学校でのいじめの記憶が結びついている人も多い。
よって、私は身体を動かすことは一切せず、別の「運動」に取り組んできた。いわゆる社会運動のほうに行ったのだ。
で、そっちの運動はどうかと言うと、これが私の生きづらさには「効いた」。
ちなみに私がハマったのはプレカリアート運動という、不安定層の労働問題や貧困問題に取り組む運動である。
スローガンは「無条件の生存の肯定」という、「もうなんの条件も満たさなくても生きてるだけでいい」的な最底辺目線で、過剰な競争社会や市場原理主義を批判.
「お前らが生きづらかったり貧乏だったり、将来が見通せないのは全部お前のせいなのだ」という自己責任論に対して、真っ向から反論するもので、ずーっと「自分のせい」だと思っていたことの多くが「社会構造にも原因があるのではないか」と思った途端、なんだか元気になれたのだった。
まぁ、一言で言うと、いろいろと「社会のせい」にできたのである。が、過剰に「個人のせい」にされているこの世の中で、社会に原因を求めることはとても重要な作業だと思うのだ。
そんな運動に身を投じて今年で9年。その間、「社会運動が忙しい」という理由で、やはり身体を動かす機会などまったくなかった。
しかし、この冬、40歳にしてボクシングジムデビュー。今、あらためて思うのは、「“生きづらさには、身体を動かすことが効く”というのは本当だったんだ」ということだ。
何しろ余計なことを考えなくていい。疲れるので、熟睡できる。ジムに行くだけで「いいことをしている」気分になれる。
生きづらさをこじらせて、もう20年以上。これまで、様々な「生きづらさに効く方法」を試し、編み出してきた。死にたい気分になりそうな時に観る、あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑えるDVDを収集し、そんな気分を救ってくれそうな本をいつも手の届く場所に置くなどして、「自分の自殺防止」に励んできた。
しかし、今までの「生きづらさこじらせ防止グッズ」は、すべて受け身だった。これからは違う。ムカついたり、くよくよ悩んでしまいそうになったら、その衝動のままジムの扉を開けばいい。きっと今までにない鋭いパンチを繰り出すことができ、ジムの人に褒められるだろう。怒りに任せて夢中になっているうちに、やせるどころか、腹筋もみごとに割れているかもしれない。そう思うと、いいことばかりではないか。
今からでも遅くない。もし、生きづらくて「一度も運動したことない」人がいたら、試してみる価値はある。いろんな情報や雑音に常にさらされるこの国で生きるには、時々、頭を空っぽにする必要があるようなのだ。
次回は4月2日(木)の予定です。