安全保障関連法(安保関連法)の陰であまり注目されなかったが、2015年8月28日、「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律(女性活躍推進法)」が成立した。第2次安倍政権が鳴り物入りでブチ上げた法案だ。
しかし、法案が登場した頃から、私のまわりでは散々な評判だった。
「活躍って、これ以上何を頑張ればいいの?」「仕事も今まで以上に頑張って、結婚して子どもも産んで、そのうえ働きながら子育ても頑張れってこと? 殺す気?」「労働者派遣法の改悪とか、女性が活躍したくてもできないような政策を次々に打ち出しておいて『活躍しろ』ってどういうこと?」「そんなことより単身女性の3人に1人が貧困とか、そういう部分の底上げを望んでるんだけど」「上位数パーセントにあたる、年収700万円以上の強者女性しか見えてない感じ」
女子たちの間ではそんな言葉が飛びかったわけだが、この法律によって、16年4月1日から従業員301人以上の企業では、「女性の活躍推進」に向けた行動計画などの策定が義務づけられることになった(従業員300人以下の企業では努力義務となる)。
しかし、こんなことぐらいで本当に「女性」が「活躍」できる社会になるのだろうか。残念ながら、到底「イエス」とは答えられない。
国税庁の給与実態調査では、非正規雇用まで含めると、女性の平均賃金は男性の約半分という圧倒的な格差(ヨーロッパなんかでは、男性100に対して女性が95の賃金比率でも大騒ぎしている)。子どもを預ける場所がないなど、仕事と子育ての両立の難しさ。また、働く女性の半分が非正規雇用という現実もある。実家暮らしの未婚の娘に親の介護がのしかかっている、もしくはこれからのしかかるケースも少なくない。一方、妊娠したら退職を迫られるなどのマタハラや、いまだ蔓延(まんえん)するセクハラといった問題もある。
この法律をめぐっては、「鍵となるのは男性側や企業の意識改革」なんてよく言われる。しかし、日本社会に根づいた「女はこうあるべき」という根拠不明の価値観は、今もこの国の隅々にまで濃厚に漂っている。
そんな「空気」について、最近、象徴的な話を聞いた。鹿児島県で講演した際のことだ。対談相手として、一緒に舞台に上がった32歳のお坊さん(イケメン)は、以下のようなことを述べたのだった。
自分は法事などの際、集まった人々を前に「人間は平等である」などと話す。様々な問題は差別から始まっていると思うので、差別はいけないという話もよくする。しかし、そんな自分の話が終わると何が起きるか。その場にいる女性たちは慌ただしく長机を並べたり、台所で料理を盛りつけたりして立ち働き、反対に男性たちはその場に座ったままで、女性に注がれたビールを当たり前のように飲み始める。「住職さんもどうぞ」などと言われて、ビールを頂いている自分もいる。さっきまで平等や差別について話していたのに、目の前の光景はまさに男女の不平等で、とてつもない自己嫌悪に陥る――。
そんな話を聞いて、私は激しく共感していた。そうなのだ。この国には、「女性の活躍」なんて言葉のずーっと手前に、問題が山積されているのである。それが日常の光景すぎて、問題と認識されないほどに。
彼の話を聞いて、いとこの女の子が亡くなった時のことを思い出した。
まだ20代で、突然、病によって命を奪われた女の子。憔悴(しょうすい)しきっていた彼女の家族。葬儀などが一通り終わって、彼女の家での食事になった時のことだ。リビングの一番いい席を陣取ったある親戚のオッサンは、娘を亡くした母親や妹を亡くした姉に対して、当然のように「ビールもう1本!」「氷ないよ!」などと怒とうの命令を次々と下したのだった。あの時、殺意が芽生えたことを、私はちっとも悪いとは思っていない。
声のデカいオッサンを、誰一人、とがめたりはしなかった。娘が、妹が死んだとしても「女」は親戚の男性のために忙しく立ち働き、酒を注ぎ、料理を運ぶなどするのが当たり前なのだ――。親戚のオッサンは、悪気なく、本気でそう思っていたのだろう。そしてこの国に住む少なくない数の男性、そして女性までもがそのことに疑いを抱いていない。いや、抱いたとしても、そうそうに諦めてしまうのかもしれない。そのほうが、楽だから。
冠婚葬祭は、親戚のオッサンによるハラスメント博覧会である。多くの人が小さい頃からそんな光景を目にし、様々な疑問を飲み込んでしまうのかもしれない。だって、そんなことを口にしたらブチ切れられるか、「そんなこと言ってたら将来幸せになれないよ」なんて言われるのが関の山なのだ。
家族とか親戚とかの小さな世界でさえ、そうなのだ。そんな価値観を持った「オッサン」が絶大な権力を握る企業社会などに出ていったら、女子たちはどんな目に遭うか。最近、自分の気持ちをあまりにも代弁してくれている文章に出会ったので紹介したい。それは、雨宮まみ著『女子をこじらせて』の文庫版(幻冬舎文庫、2015年)の解説。社会学者の上野千鶴子さんによる、『解説――こじらせ女子の当事者研究』から引用しよう。
解説で、上野さんは「女子をこじらせ」た果てにAV(アダルトビデオ)ライターとなった雨宮まみさんのことに触れつつ、以下のように書く。
「『AV女優にならない/なれない女』という安全圏にいったんは身を置いたはずなのに、女であることから彼女は逃げられない。AVレビューのプロとしてまじめに仕事をすればするほど、男にウケれば『女でも、こいつはちがう』『わかってる』と名誉男性の評価を受けるいっぽうで、逆に『女だから』とか『女目線』が評価の対象となることに傷つく。
女でなくても傷つき、女であっても傷つく。これは多くの女にとって見慣れた風景だろう。しごとができればできたで『女にしては』と評価されるいっぽうで、『女だから』評価されたのだとおとしめられそねまれる。しごとができなければ論外だ。男の社会のうちに女の居場所はないし、逆に女の指定席に座ってしまえば一人前に扱われない。あまりになじみの経験なので、これに『ウルストンクラフトのディレンマ』と名前がつけられているくらいだ」
さて、そんな社会で生きる時、女子たちは時に「ワケ知りオバサンの戦略」をとることを強いられる。それは以下のようなものだ(以下、同解説より引用)。
「セクハラにあってショックを受ける女性を『男なんてそんなもんよ』となだめ、下ネタには下ネタでかえすワザを身につけ、男の下心だらけのアプローチをかわしたりいなしたりするテクを『オトナの女の智恵』として若い娘にもすすめる……そんなやり手ババアのような存在になっていたかもしれない。そしてこんなワケ知りオバサンほど、男にとってつごうのよい存在はない。
『すれっからし』戦略とは、男の欲望の磁場にとりかこまれて、カリカリしたり傷ついたりしないでやりすごすために、感受性のセンサーの閾値(いきち)をうんと上げて、鈍感さで自分をガードする生存戦略だった、と今では思える。男のふるまいに騒ぎ立てる女は、無知で無粋なカマトトに見えた。そうでもしなければ自分の感受性が守れなかったのだが、ツケはしっかり来た。感受性は使わなければ錆(さ)びつく。わたしは男の鈍感さを感じなくなり、いつのまにか男にとって便利な女になっていた。著者のいう『ハメ撮りしてることを知ってて、うまくいっている(AV監督の)奥さん』と、その対極にいる『奥さんがいることを知っていて男の欲望に応じ、トラブルを起こさない愛人』のセットほど、男にとってつごうのよい存在はないだろう」
なんだかもう身につまされるような言葉のオンパレードだが、では、どうすればいいのか。上野氏は、女子たちにこのように呼びかけるのである。
「(前略)手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にフタをするな。そして……じぶんをこれ以上おとしめるな」
プリントして、部屋に貼っておきたいほど素晴らしい言葉である。
ということで、「楽だから」と身近にある小さな「差別」を見逃さず、ちゃんと声にしていきたいと改めて、思った。
その積み重ねがあってこその、「女性の活躍」だと思うのだ。
次回は12月3日(木)の予定です。
女性活躍推進ってなんだ!?
(作家、活動家)
2015/11/05