360度から突っ込みがいがあるキーワードだらけだが、今回注目したいのは「介護」だ。なぜなら、ある程度お年を召した女子にとって、「親の介護問題」は避けて通れない切実なテーマだからである。
最近も、あまりにも痛ましい事件が起きた。15年11月に、埼玉県深谷市の利根川で起きた一家無理心中未遂だ。母親への殺人罪、父親への自殺幇助(ほうじょ)で逮捕されたのは、実家に住んで親の介護をしていた47歳の三女のA子さん。事件の概要は次の通りだ。
11月22日未明、1台の車が利根川に突っ込んだ。
運転していたのはA子さん。同乗していたのは81歳の母親と、74歳の父親。A子さんの母親は10年ほど前にクモ膜下出血で倒れ、その後認知症が悪化。A子さんは、そんな母親の介護を献身的に続けていたという。母親から一切目を離せないので、仕事は3年前に退職。一方、父親は74歳という高齢ながら新聞配達をし、一家の家計を支えていた。しかし、頸椎を痛め、手足のしびれなどがあり、新聞配達の仕事を辞めざるを得なくなる。それが事件の10日前。年金収入もなく、貯金もない親子の生活は立ち行かなくなる。
そうして11月17日、A子さんは生活保護の申請をするものの、それから4日後、父から「一緒に死のう」と言われ、一家心中しようと車で川に突っ込んだのだという。
11月22日朝、両親を遺体で発見。一方、A子さんは低体温症の状態で発見され、病院に運ばれた後、逮捕された。
最近、この事件の取材のため深谷市を訪れたのだが、現場の河原には、今も生々しくタイヤの痕が残されていた。また、自宅は一見「廃虚」と見紛うような状態で、家賃3万3000円の借家はトタンがさび付き、傷んだ壁がところどころ朽ちていた。家の前には、ステンレス製のペット用と思われる皿が残されていた。自分たちの生活が厳しいながらも、のら猫に餌でもあげていたのだろうか。その近くには近所の人によるものなのか酒や花が供えられていて、物置には、父親のものらしき防寒用のズボンがぶら下がっていた。新聞配達の時に使っていたものだろうか。
役所の人によると、A子さんにはうつ病とみられるような感じはなく、受け答えもハキハキしていたという。「母親の症状が落ち着いたら働きたい」という意欲も見せていた。また報道では、認知症の症状から大声を上げるなどの母親に対して、決して声を荒げることなく、優しく接していた様子も伝えられている。献身的な娘の起こした、あまりにも悲しい事件。しかも、生活保護申請という形で行政に頼れてもいた。生活保護の申請の前には、母親が介護サービスを受けられるよう、要介護認定の手続きもしていたのだ。父親が仕事を辞めたとはいえ、数年間にわたる介護負担が軽減され、自らの人生を歩むべく、まさに第一歩を踏み出した矢先に起きてしまった事件。背景には一体、何があったのだろう。
さて、そんな私も40歳で、親はそろそろ70代にさしかかろうとしている。
父親は数年前にがんを発症し、ステージ4とかなり進行していたが治療は成功。5年以上たった今も、とりあえず元気で仕事を続けている。専業主婦の母親はといえば、大きな病気はしていないものの、母自身が現在、祖母の介護に追われている状態だ。といっても祖母は今は施設に入っているのだが、病状の進行などによって居られる施設が変わってくるため、次に移れる施設を探したり、そこに通ったり、という感じだ。
そんな両親に何かあったら、どうすればいいのだろう……。つねづね考えつつも、あまり考えないようにしているテーマだ。が、私のまわりには、すでに30代にして親の介護が始まった女子もいる。自分自身がちょうど「結婚を考えようかな」という時期に、介護が必要となってしまった親。しかも、実家暮らしなので逃れようがない。そのうえ一人っ子。彼女は仕事と折り合いをつけながら、なんとか介護を続けているが、はたから見ていても大変そうだ。体力的、金銭的、時間的なこともそうだけど、何より本人の人生設計が狂ったことが「最大の誤算」といった感じ。
一方、結婚してから介護が始まった女子もいる。新婚生活は、離れた場所に住む実親の介護一色となり、結局離婚してしまった。今、彼女がどうしているか、私にはわからない。
また知り合いの中には、親の介護によって正社員の仕事を離職、介護に忙殺されて次の仕事を探すこともできず、両親をやっとみとった際には財産をほとんど失っていて、そのまま路上生活者になってしまった男性もいる。彼は数年におよぶホームレス生活の後、支援団体に出会って路上生活を脱出。今は自らが支援する側となって活動しているのだが、そんな話を聞いた時には「これから介護離職ホームレス、絶対増えるだろうな」と思ったものだ。
介護か、仕事か。「介護離職」という言葉が示すように、今後、親の老いに直面する多くの人が突きつけられるテーマだと思う。
そんなことを考えていたところ、最近、テレビで興味深い言葉と出合った。それは介護殺人などをテーマとした番組でのこと。自らも母親の介護中という女性コメンテーターは、「介護か仕事か悩んだら、介護をやめろ」と断言したのだ。
これは、私にとっては衝撃だった。そして、どこかで救われもする言葉だった。介護か、仕事か。これは翻訳すれば「親を選ぶか、仕事を選ぶか」という究極の2択だ。そしてその言葉の背景には、「親は何よりも大切にしなくてはいけない」「親より仕事を選ぶなんて人でなし」的な価値観も横たわっている気がするのだ。が、「家族を大切に」「親を大切に」と言いすぎると、追いつめられた個人はどこかに助けを求めることもできず、最悪「一家心中するまで家族で助け合う」なんて状況にもなりかねない。一方で、家族間での介護が、虐待などにつながっているのは周知の通りだ。
そうか、プロからすると、介護よりも仕事を選ぶべきなのか。とにかくなんとしてでも介護サービスなどを利用し、仕事は辞めないようにすることがベストなのか――。明解なアドバイスは、きっと今後、役に立つ時がくると思う。
介護問題を考えるにあたって、もう一つ、私が大切にしている言葉がある。それは難病の家族を長い間、介護してきた女性の言葉。「家族介護は煮詰まって殺し合いになるから、絶対に他人を入れないとダメ」というものだ。
とにかく介護サービスを入れるなどして、あえて他人を入れるようにしないと、密室での家族介護では虐待や殺人につながりやすいのだという。が、いつからか、この国は社会保障費の削減を進める一方で、やたらと「国なんかに頼らず家族で助け合え」「自助、共助が基本」(自助=自分でなんとかすること 共助=家族や地域社会で助け合うこと)と強調している。「介護離職ゼロ」とか言いながら、「自分たちでなんとかしろ」と言っているのである。
そんなことを考えていて思い出したのは、利根川の心中未遂事件の取材の際、役所の人が言った言葉だ。このような事件が2度と起こらないためにも検証委員会の設立を、と訴えた人に対し、役所の人は「地域社会のつながりが大切」と述べた。「行政だけの力では無理なので、民生委員や自治会、老人会、婦人会など地域ぐるみで見守る体制を作ることも重要」と。
もちろん、そういう側面も必要だと思う。しかし一歩間違えば、それは「大変な人を地域社会でなんとかして助けろ」という、「地域への丸投げ」になってしまう。漠然とした「地域の助け合い」の中には、責任者はいない。よって責任の所在は、常にあいまいだ。
住民は行政の「安上がりなボランティア」ではない。そして、なんの専門知識もない人々に多くを期待してはいけないし、時にそれは危険ですらある。
利根川の事件では、A子さんの家族はすでに自治会から抜けていたという。おそらく、自治会の会費が払えなかったのだろう。お金がないと、このように「共助」からも排除されてしまうのだ。
「介護離職ゼロ」という言葉を見ながら、空しさが込み上げる。
そして一体、自分が介護を受けるような頃には、この国の社会保障制度は機能しているのだろうか、と激しく不安になってくる。「お金持ちしか医療や介護を受けられない」なんて世界が広がっているような気がするのは私だけではないだろう。TPPとかあるし……。
利根川の事件のA子さんは、最近、起訴された。
もうすぐ、裁判が始まる。
次回は2月4日(木)の予定です。