Ⅱ「異神」からの帰還――G・K・チェスタトンとT・S・エリオット
エドマンド・バークが闘ったのが、フランス革命に象徴される啓蒙合理主義の暴力だったのだとすれば、その後に登場してくるG・K・チェスタトンや、T・S・エリオットが闘ったのは、産業革命以来急速に拡大していった進歩主義(唯物論)と、単なるエゴイズム(市場)擁護の道具と堕した自由主義、そして、それがもたらす大衆文明とそのニヒリズムだったと言っていいでしょう。その点、チェスタトンとエリオットもやはり、資本主義にも共産主義(政治)にも頷くことのできなかった同時代文学者の一人だったと言えます。
しかし、だからといってこの二人は、「アクセルの道」も「ランボーの道」も採ろうとはしませんでした。いや、より正確に言えば、ヨーロッパ文明の頽落を目の前に、「ランボーの道」へと限りなく近づきながらも、そこからUターンするようにして、改めて、自分の「故郷」であるキリスト教に帰還すること、それがこの二人が採った道だったのです。
たとえば、ブラウン神父シリーズで知られる作家・批評家のG・K・チェスタトンは、自らの〈キリスト教思想=正統思想=orthodoxy〉を初めて明らかにした『正統とは何か』(1908年)の冒頭、自分が「夢みてきた物語」について次のように語っていました。
「私が前々から書きたいと夢みてきた物語がある。主人公はイギリスのヨット乗りで、ほんの僅か進路の計算をまちがえたばっかりに、実はイギリスに漂着しながら、これはてっきり新発見の南海の孤島にちがいないと思いこんだのだ。〔中略〕さてこの男、完全武装で上陸して、南海の孤島のことだから言葉は通じまいと、身ぶり手ぶりで意志表示を試みながら、野蛮きわまる宮殿にイギリス国旗を打ち立てたところ、あにはからんやこの宮殿、実は南英の保養地ブライトンの数奇をこらしたパビリオンであったというのだから、一般の読者の印象としては、この男、いかにも馬鹿を見たということになるのかもしれぬ。〔中略……しかし〕この男のやらかしたまちがいは、まこと羨むべきまちがいなのである。そしてもし、この男が事実私の思うとおりの人物ならば、彼自身にもこのことはわかっていたはずである。なぜといって、見知らぬ国へ行く魅惑に満ちた怖れと、故国に帰るなつかしい安堵のすべてを、同時に瞬時にして味わえるというほど歓ばしい経験がまたとあろうか。」『正統とは何か』安西徹雄訳、春秋社(〔 〕内引用者、以下同じ)
そしてチェスタトンは、この寓話を持ち出したことの理由について、こう付け加えることになります、「ほかならぬ私こそその男だからである。私はイギリスを発見したのだ」と。
とすれば、ここで世界の果てを夢見て旅立とうとしているヨット乗りとは、まさしく、「十九世紀末葉の馬鹿げた野心のことごとくを抱」きながら、「時代を一歩先んずることに無上の情熱を傾けていた」(同前)、かつてのチェスタトン自身の姿であり――実際、若き日のチェスタトンは、フランス革命の登場人物=ルソー、ダントン、ロベスピエールに憧れ、アメリカ自由詩の父であるホイットマンに心酔し、同時代の印象主義やオスカー・ワイルドの「悪魔主義」に入れ込むような「異端者」の一人だったのです(山形和美『チェスタトン』清水書院)――また、その旅の果てで改めて発見され直されていた故国イギリスとは、一度、その外に出ようとしたがゆえに改めて見出すことのできた自分の限界、つまり、自己自身の可能性の限界で果たされた「回心」を支える大地の手応えだったと言っていいでしょう。だから、その手応えは、「魅惑に満ちた怖れ」(限界への挑戦)と、「なつかしい安堵」(限界内の落ち着き)とがない交ぜになった感情であると言われることになるのです。
いや、もっと簡単に言い換えましょう。つまり、ここでチェスタトンが強調しているのは以下の二つのことなのです。一つは、「外」に出たのだというどんな勘違いも、実は、その「全体」の内側での踠(もが)きでしかなかったのだということ。そして、もう一つは、まさにその「外」に出ようとする踠(もが)きによって、自分を越えて自分を包む伝統の強さを甦らせることができたのだという教訓なのです。ここには、カール・マンハイムが語った、単なる旧套墨守の「伝統主義」とは違う、リフレクショナルな「保守主義」の態度――つまり、「伝統」を反省的に引き受け直そうとする態度が語られていますが(本連載第一回参照)、まさしく、チェスタトンが示していたものこそ、「アクセルの道」(人工楽園の道)でも、「ランボーの道」(脱西欧の道)でもない第三の道、「保守への道」だったと言うことができるでしょう。
そして、この「外」を通じての「内」への帰還、あるいは、その「外」への欲望自体がヨーロッパの「全体」の経験に包まれていることの確信は、チェスタトンよりもひと回りほど若い詩人・批評家のT・S・エリオットによって、より明確に摑まれることになります。
第一次世界大戦によるヨーロッパ破壊からおよそ十五年後の1933年、エリオットは、「伝統の欠乏をハーキュリーズ〔ヘラクレス〕のように巨大な、しかし純粋に知的で個人的な努力〔コスモポリタニズムの衣装〕で埋め合わせ」ることなどできないのだと言いながら、その根拠を、かつて「異神」を追ったことのある自分自身の経験のなかに求めていました。
「私がこういった断定を下すのは一つには私も同じような経験を味わったことがあるからである。〔ハーバード大学時代〕チャールズ・ランマンのもとで二年間サンスクリットを研究し、ジェイムズ・ウッズの指導でパタンジャリの形而上学の迷宮に一年間迷ったあげくは、ただそれがわけの分らないものだということが分っただけであった。〔中略〕ショーペンハウエル、ハルトマン、ドイセンに見られるような婆羅門思想や仏教思想のヨーロッパへの『影響』なるものは主として浪漫的な誤解から生れているものだと分ったので、私はこういう結論に達した――あの神秘の中心に本当に突き進みたいという私のただ一つの希望を達するためには、アメリカ人あるいはヨーロッパ人として考えたり感じたりすることを忘れなければ駄目だという結論であった。」「異神を追いて――近代異端入門の書」、中橋一夫訳、『エリオット選集 第三巻』所収、彌生書房
そして、エリオットは、そんな欧米人としての考え方や感じ方を放棄することができるのかという問いに向かって、端的に「感情的な理由からもまた実際上の理由からも、私はそんなことはしたくなかった」と答えることになるのです。要するに、自分の〈自由=可能性〉をどんなに加速させたところで、エリオットは、「アメリカ人あるいはヨーロッパ人」として生まれてきた自分自身の〈限界=不可能性〉をどうすることもできないし、また、どうしたいとも思わないと言うのです。そして、ここで注意するべきなのは、エリオットを、その〈限界=不可能性〉の自覚に導いていたのが、一度は、〈脱西欧=東洋〉に憧れもした自分自身のロマン的魂であったという彼自身の述懐でしょう。つまり、エリオットもまた、自分自身を「異端」の立場――己に無限の可能性を見る狂気――に限りなく近づけることによって逆に、己自身の限界を見出し、そこから「伝統」へと回心していたのだということです。
おそらく、この心理的経緯を初めて「思想」として表明したのが、エリオット三十一の歳に発表した、ヨーロッパ文明論「伝統と個人の才能」(1919年)でしょう。
「伝統はまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることをつづけたい人なら誰にでもまあ欠くべからざるものといってよい歴史的意識を含んでいる、この歴史的意識は過去が過去としてあるばかりでなく、それが現在にもあるという感じ方を含んでいて、作家がものを書く場合には、自分の世代が自分の骨髄の中にあるというだけでなく、ホーマー以来のヨーロッパ文学全体とその中にある自分の国の文学全体が同時に存在し、同時的な秩序をつくっているということを強く感じさせるのである。〔中略〕
どの詩人でもどの芸術部門の芸術家でも、その人ひとりだけで完全な意義をもつ者はない。その意義、その価値は死んだ過去の詩人たちや芸術家たちに対する関係の価値である。詩人や芸術家をその人ひとりだけ切り離して評価することはできない」「伝統と個人の才能」『文芸批評論』所収、矢本貞幹訳、岩波文庫
ここでエリオットが否定しているのは「伝統」と「個人」、あるいは「伝統」と「進歩」の二項対立です。この二項対立を肯定する限り、自由を追い求める「個人」は、必ず「伝統」を否定しなければならず、「伝統」を否定する「個人」は、必ず「全体」との関係を失って、孤立し、狂気へと陥らざるを得ない……。この認識の背後には、ひと目惚れでヴィヴィアン・ヘイ=ウッド(1888~1947年)と結婚し、その後十八年間、不幸な結婚生活を強いられたエリオット自身の痛々しい経験があったのかもしれませんが(その後、エリオットと離婚したヴィヴィアンは持病の神経症が悪化して亡くなります)、いずれにしろ、これが「伝統」と「個人」との関係を対立的に捉える近代個人主義に対する、保守思想家=エリオットの診断でした。
しかし、だからこそ「個人」は、「伝統」に包まれた形で肯定されなければならないのです。歴史を知らない十代の青年なら、ちょっとした自分の思い付きを、「個人」の才能(天才)によるものだと勘違いすることもできるのかもしれません(ロマン主義)。が、「二十五歳をすぎても詩人たることをつづけたい人」は、そうはいかないでしょう。彼は、自分の作品(目の前に置き据えることのできる図としての作品=部分)が、由って来る歴史の流れ(目の前の作品を包みこんでいる地としての歴史=全体)を意識せざるを得ませんし、また、その歴史の流れのなかからしか、自分の作品を吟味し、それを評価する基準を取り出すことができないことにも気づくはずです。よく、「歴史を塗り替えた傑作」などという言い方がありますが、しかし、その傑作も、決して歴史の「外」に存在しているわけではありません。むしろ、歴史の「内」に位置づけられて初めて、それは傑作たることができるのです。
果たして、ここに、あの有名なエリオットのテーゼ――「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの逃避であり、個性の表現ではなくて個性からの逃避である」という言葉が導かれることになるのでした。人の苦しみの原因は「伝統」ではありません。むしろ、「伝統」の保護膜を失って剝き出しになってしまった「個性」と「情緒」、これが私たちの孤独と不安、つまり、苦しみの原因なのです。だからこそ私たちは、その痛々しく剥き出しになってしまった感情を前に、それを詩の言葉で静かに包みこもうとするのではなかったでしょうか。そこに現れるもの、それこそが鎮魂と浄化のための儀式、つまり、芸術だったのです。
(註1)
これは決して私の思い付きではなく、たとえばベルクソンに関して言えば、それは実際に、T・S・エリオットや、日本の「伝統」を語った小林秀雄に圧倒的な影響を与えていますし、また、現代の代表的保守思想家である西部邁は、ハイデガーの「解釈学的循環」の議論や、ウィトゲンシュタインの「生活形式」の議論を引き合いに出しながら、それを保守思想の「源流」として論じていました(西部邁『思想の英雄たち――保守の源流をたずねて』参照)。その内実については、次回以降に見ていきたいと考えています。