Ⅰ 第一次世界大戦と現代思想――「不安」の時代とハイデガー
前回は、私たちの社会の根底にある「力」に関して、オルテガやエリオットの言葉を手掛かりにしつつ、意識より手前にある無意識の問題、そして、その無意識を生成している「生」の問題について、ベルクソン哲学を手掛かりに論じておきました。言ってみれば、個人の意識に基盤をおく「近代思想」(知性による設計と進歩)ではなく、個人を超える「力」(風土や環境や他者との繋がり)に基盤を見出そうとする思想、それが保守の思想だということです。
しかし、考えてみれば、これは、19世紀西欧の自由と理性の限界への問い――カントが言うように〈われわれの認識主観が対象を作りだしている〉のだとすれば、その神の如き自由を生きているはずの認識主観は、なぜこうも不条理で常に動揺しているのか? という問いに答えようとする営み、つまり、20世紀現代思想とも響き合う思想だったと言うことができます。
分かりやすいところで言えば、意識的な政治イデオロギーの背後にある経済的構造に眼を向け、資本主義社会を超克しようとしたマルクス(1818~1883)、明晰なアポロン的意識(表象)の底に眠るデュオニュソス的なるもの(意欲)の記憶を通じて西欧思想の虚構性を批判したニーチェ(1844~1900)、意識だけでは整合化できない人間の奥底に眠る無意識の衝動(リビドー・ES)を主題化したフロイト(1856~1939)、「現代数学」の動揺(数学とは経験的対象をもたない単なる形式ゲームなのか、それとも、経験的心理的対象をもつ記号体系なのかという問い)に応答するように、ヨーロッパ諸科学(意識)の基盤そのものを問い直そうとしたフッサール(1959~1938)、そして、〈対象が、われわれの意識に依存している〉のではなく、〈その意識こそが、われわれの言語体系に依存している〉のではないかと指摘したソシュール(1857~1913)やヴィトゲンシュタイン(1889~1951)の思考(言語論的転回)など、20世紀現代思想の多くは、世界を明晰に対象化しようとする「自律的な意識」(カント)に対する批判的思考として展開されてきたという経緯があります(しかし、その意識を超えたものを構造化できると考えた点で、フロイトや、マルクスや、ソシュールなどは、まだまだ19世紀的だったと言えますが)。
ただし、これらの「近代」批判が力をもつためには、ヨーロッパ近代の挫折、つまり、近代的知性に対する信用の大きな失墜が必要でした。そして、それを齎(もたら)したのが、第一次世界大戦(1914~1918)だったのです。
第一次世界大戦中のイタリア(アジアーゴの通り)の様子
帝国主義による植民地獲得競争(原材料調達と市場拡大を図る資本主義の加速)の果てに引き起こされた第一次世界大戦は、それまでの戦争とは全く異なる「総力戦」でした。ヨーロッパは、ヨーロッパ自身が培った近代科学文明の成果の全て――機関銃、毒ガス、戦車、戦闘機など――を投入し、自らの大地を破壊し、故郷を荒廃させ、これまでにない規模の犠牲者を出しながら(おおよその数で言えば、戦死者856万人、行方不明者775万人、負傷者2120万人、非戦闘員の死者1000万人)、さらには帝政ロシアとハプスブルク王朝という二つの伝統ある政体を終わらせることになります。それは文字通り、自らの正気、ヨーロッパ近代の「意識」を疑わざるを得ない経験だったと言っていいでしょう。
ここでその衝撃を伝える二つの言葉を紹介しておきましょう。一つは、ヨーロッパ近代の「知性」を代表する批評家=ポール・ヴァレリー(1871~1945)の言葉。そして、もう一つは、そんなヨーロッパ近代の「知性」を超えるために、人間の「生」の奥底にある〈性=無意識〉に遡行しようとしたD・H・ロレンス(1885~1930)の言葉です。
「比類のない戦慄がヨーロッパの骨の髄を駆け抜けました。ヨーロッパは、その全思考中枢によって、自分をもはや自分と認識できないと、自分が自分に似るのをやめたと、意識を失いそうだと感じたのです。その意識とは、数世紀にわたって続いたにせよ忍耐が可能であった不幸によって、多数の一流の人たちによって、そして地理的、民族的、歴史的な数え切れない幸運によって獲得された意識なのです。」
「事実は明白で冷酷です。数千もの若い作家や芸術家が死にました。ヨーロッパ文化にたいする幻滅がありましたし、知識がなにものをも救えないことが証明されました。〔中略〕あまりにも突然の、激しい、心揺さぶる出来事、ネコがネズミを弄ぶように、わたしたちの思想を弄ぶ出来事のために懐疑主義者自身が面食らってしまいました。」「精神の危機」1919年、松田浩則訳、『ヴァレリー・セレクション 上』平凡社ライブラリー収録
「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受けいれようとしないのである。大災害が起り、われわれは廃墟の真っただなかにあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起ったにせよわれわれは生きなければならないのだ。
これがだいたいにおいてコンスタンス・チャタレイのおかれた状況だった。ヨーロッパ大戦〔第一次世界大戦〕は、彼女の頭上にあった屋根を崩壊させてしまった。その結果として彼女は、人間には生きて識らねばならぬものがあることを悟ったのである。」『チャタレイ夫人の恋人』1928年、伊藤整訳(伊藤礼補訳)、新潮文庫、〔 〕内引用者、以下同
ヴァレリーは、懐疑主義者さえもが必要としていた「ランプ」、つまり、その懐疑を駆動するヨーロッパの〈光=意識〉が、大戦の大波によって消されてしまったのだと言います。あのデカルト的懐疑も、最後は「疑っている私は疑えない」という「意識」(神に直結する精神=Cogito)に突き当たることで己を保っていたのだとすれば(ヴァレリーの小品「ムッシュー・テストと劇場で」(1896)には「デカルトの生活はこの上なく単純である」というプロローグが付されていたことを思い出しておきましょう)、第一次世界大戦は、その神へと繋がるヨーロッパ人の「意識」を破壊してしまったのでした。
そして、だからこそ「未来に向かって進むなだらかな道は一つもない」と言うロレンスは、その「意識」を迂回する「遠まわり」の道として、〈性=身体〉を媒介とした触れ合いを、「生きて知らねばならぬもの」としての無意識を、つまり、「コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合」(ロレンス最晩年の著作『黙示録論』福田恆存訳、ちくま学芸文庫)を語らなければならなかったのです。
なるほど、この「意識」を超克した「大地」への欲望を語るロレンスに対して、「ロレンスは政治家たちが気づく前に、ファシズムの全哲学を展開していた」だの、その「血の意識」という考えは「アウシュヴィッツへと直結している」だのといった、たとえば、バートランド・ラッセルによる批判があったことは知られています。が、遺著である『黙示録論』に眼を通せば、そのムッソリーニ批判やレーニン批判を含めて、ロレンスが、個々人の「あいだ」にある「共通感覚」(アーレント)を取り払った「束(ファッショ)」を志向していたのではなく、むしろ、人と人との「あいだ」に生成する「自然な肉体的な優しさ」(『チャタレイ夫人の恋人』)を甦らせたいと考えていたことは明らかでしょう。
ところで、そんな時代に、D・H・ロレンスと同じように、人々の有機的結合を基礎づける「宿命」や「民族」や「歴史」や「共同体」と共に「大地」について語っていた哲学者が存在していました。『存在と時間』(1927)によって、ドイツ哲学界に「落雷のような衝撃をもたらした」と評されるマルティン・ハイデガー(1889~1976)、その人です。
19世紀末、南ドイツの片田舎メスキルヒの教会の堂守の子として生まれたハイデガーは、まさにヨーロッパ的「意識」が不鮮明になっていくその時代のなか、近代認識論の根源へと遡行する仕事へと向かっていくことになります。20歳でフライブルク大学の神学部に進学するものの、休学を挟んで「理学部」へ、さらには「哲学部」へと転部しながら、フッサール現象学に近づいていったハイデガーは、次第にギリシア以来の西欧形而上学全体を相手取る仕事へと向かって行くことになるのです。が、時代は、まさに第一次世界大戦による「不安」の時代。ハイデガーは、教授資格論文提出後も、軍からの召集による郵便局での仕事や、固定給のない私講師で糊口を凌ぎつつ、次第に、ドイツ青年運動(質素な田舎生活や自然体験を通じて自己を高めるワンダーフォーゲルの運動)や、シュライアーマッハーやキルケゴールなどの「実存神学」、そして、ニーチェ、ベルクソン、ディルタイなどの「生の哲学」へと接近していくことになるのでした。
かくして、その総決算として書かれたのが、『存在と時間』でした。それによって評価されたハイデガーは、翌1928年には、師であるフッサールの後任としてフライブルク大学の正教授に迎え入れられ、以降、既存の西洋哲学のパラダイムを書き換える仕事――ときにその仕事は「認識論から存在論へ」と言われます――を続々と発表していくことになるでしょう。では、その最初の一歩として書かれた『存在と時間』とは、どのような本だったのでしょうか? そして、それはどのような意味で現代思想の起源となり得、さらには、どのような点で、「保守思想」とも繋がる主題をもっていたのでしょうか?