Ⅰ 後期ハイデガーと「言葉」の問題
前回は、主に『存在と時間』に即して、「存在者」(あるモノ=対象物)の認識の手前にあって、その認識を成り立たせている「存在」(あるコトのリアリティ)の思想について論じておきました。
この節では、まず、前回の復習も兼ねて、初期ハイデガーの問題意識を確認しつつ、そこから、後期ハイデガーへの流れについても簡単に整理しておきたいと思います。
『存在と時間』によれば、「存在」は、普段は隠されていますが(意識されることがないのですが)、私たちが、私たち自身の「死」の可能性に直面することによって、突如、不気味なかたちで私たちを襲ってきます。ただ、その不気味さは、私たちの「本来性」への回路でもありました。私の意識作用とは無関係にこの世界が存在し、また、この世界のなかに無根拠に投げ入れられてしまっている事実(不気味さ)に直面して、ようやく私は、私の人生が他者との比較を絶して生きられる固有の可能性であることに気が付くのです。そして、そこで見出されるのが、私の固有の可能性(私固有の文脈)を支え、また限定しているものとしての「共同体」と「歴史」でした。つまり、私という個人が、その個人の可能性の極北で出会うもの、それが「共同体」と「歴史」だということです。
ドイツ(チュービンゲン)で議論するマルティン・ハイデッガー(1961年)
しかし、だからこそ、ハイデガーが語る「共同体」と「歴史」を、単なる「世間」的な意味(公共的な対象=イデオロギー)に還元してはならないのです。それは、単独的な「この私」を包摂している「人間本質の住まい」(『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎訳、ちくま学芸文庫)として語られるべきものでした。
では、「人間本質の住まい」とは、具体的に何を指しているのでしょうか?
それこそは、ほかならぬ「言葉」でした。「言葉」は、後期ハイデガー思想の核心を成す主題ですが、それが最も分かりやすく語られている部分を引用しておきましょう。
「……『すべての山の頂きに静けさがある』(Über allen Gipfeln ist Ruh)とは――静けさが《見出される》(befindet sich)ということであろうか、《行なわれている》(findet statt)ということであろうか、《支配している(herrscht)ということであろうか、それとも《横たわっている》(liegt)ということであろうか、――それとも《働いている》(waltet)ということであろうか。ここでは、どう書きかえてみても、うまくいかない。にもかかわらず、この同じ《ある》が語っている――端的に、かけがえなくひと息に、ゲーテがイルメナウの近くのキッケルハーンの岳にある板小屋の窓枠に鉛筆で書き付けた、あの数行の詩句(1831年9月4日付のツェルター宛書簡を参照せよ)で、ふと言われたままに。
このゲーテの言葉に接すると、われわれがありふれた《ある》の註解において、あれこれと迷い、ためらい、ついには註解をまったく断念して、ただその語句をもう一度繰り返し口誦するということは、なんとしても注目すべきことではないか。《すべての山の頂きに、静けさがある》。われわれがこの《ある》の註解を試みないわけは、それの理解があまりに込み入っていて困難で、ほとんど成功の見込みがないからではなくて、むしろここでは《ある》がかくも単純に語られているからである。〔中略〕《ある》は《多義的な》言葉のひとつであると言いはるだけでは、もう足りないのである。というのは、ここではたんなる多義性が問題なのではない。存在を告げる可能性の豊かさが現われてくる。そしてこの豊かさが、われわれが論理的=文法的観点から《多義性》として算定しがちなものを初めて可能にしているのである。」「ヨーロッパのニヒリズム」『ニーチェⅡ』細谷貞雄 加藤登之男・船橋弘訳、平凡社ライブラリー
このハイデガーの言葉において重要なのは、まず「存在」のリアリティを最も純粋に保持し、それを伝えている「詩句」においては、その意味をどんなに言い換えても(それをどんなに多義的に解釈しても)、その本質には届かず、それゆえに「詩句」の理解は、最終的に「詩句」の同語反復に頼らざるを得ないのだという指摘です。
一見、難しそうなことを言っているようにも読めますが、しかし、これは、日本語の「詩句」の経験に立ち戻って考えてみれば、容易に理解できます。
たとえば、芭蕉の有名な句「古池や 蛙飛び込む 水の音」を前にして、それを「古池の前に一匹の蛙がいたのだが、それが池に飛び込んで、ポチャンと音がした」と現代語に訳してしまった瞬間、あるいは、そこに様々な注釈を付け足してしまった瞬間、それによる解釈が、すでに「古池や 蛙飛び込む 水の音」が湛えているリアリティとズレてしまっていることは誰にでも直観的に分かるでしょう。世界のリアリティを開いているのは、あくまでも「詩句」そのものであり、「多義」的な解釈は、「詩句」の「存在」のリアリティを感受した人間が、その後に反省してようやく手にするものでしかないのです。
しかし、だとすれば、世界の「存在」(あるコトのリアリティ)を開示している「言葉」は、最終的には「語り得ないもの」だと言うべきではないでしょうか。それは自分が自由に操作し得るもの、単なるコミュニケーションの道具(意味)であるより以前に、まずは静かに享受され、耳を傾けるべきものとしてあります。私たちが「言葉」を語っているのではなく、「言葉」が私たちに語らせているのです。