Ⅰ 「個人」の行き詰まり――十九世紀から二十世紀へ
前回までの連載で、ルソー、カントからはじまる「左翼」の系譜に対して、エドマンド・バークの「保守」の思想を対比的に論じておきましたが、フランス革命以降の十九世紀ヨーロッパは、その政治的変革とはまた違う意味で、大きな変革の季節を迎えることになります。十八世紀にはじまった産業革命と、その成果を利用した資本主義の拡大です。
まずは、フランス革命以降のヨーロッパ史を簡単に整理しておきましょう。
フランス革命後の混乱を制したナポレオンは、1804年の国民投票によって皇帝となり、その後にヨーロッパ大陸の支配に乗り出します。が、ロシア遠征(1812年)の失敗を機に、逆に、ヨーロッパ諸国からの抵抗(諸国民戦争)に遭ってしまったナポレオンは、その2年後の1814年、皇帝の座を降りることになります。そして、その後のヨーロッパに現れたのが、革命に対する「反動」であるところの「ウィーン体制」でした――悪い意味で「保守反動」が言われる場合、だいたいこのウィーン体制のことを指しています――。
ナポレオン支配に打ち勝ったヨーロッパ諸国は、戦後処理のためにウィーン会議(1814~15年)を開き、そこで復古的な「ウィーン体制」(当時の国際政治を指導したオーストリア外相の名前をとって「メッテルニヒ体制」と言うこともあります)を立ち上げるのです。それは、基本的に、貴族制度を脅かす革命と戦争とを抑止するための体制であり、その基本路線は、フランス革命以前の王朝に正統性を見いだそうとする保守主義でした。
一方、その頃、ヨーロッパで実力をつけはじめていたのは、啓蒙思想家ではなく、産業革命によって自らの「自由」を拡大していた資本家=ブルジョワジー=市民でした。
産業革命は、まずイギリスの機械工ワットが蒸気機関の特許をとった1769年ごろからはじまったと言われます。最初は、鉱山でのポンプに使われていた程度の蒸気機関でしたが、そのうち、それは船や鉄道に応用されるようになり、1803年には、アメリカ人画家のフルトンが外輪をつけた蒸気船を建造し、1814年には、イギリス人のスティーブンソンが蒸気機関車を陸地で走らせることに成功します。その後、鉄道はフランス、ドイツ、オーストリア、ロシアにまで敷かれ、1840年代には、鉄道のない国はほとんどなくなっていたと言われるほどの普及ぶりでした。そのほか、電信や紡績機も十九世紀に実用化されることになりますが、要するに、これらの技術革新によってヨーロッパは、資源の採掘→工場への運搬→商品製造(工場建設)→市場への運搬という、資源確保から商品流通までのサプライチェーン(巨大市場)の構築に成功することになるのでした。
これは、フランス革命に勝るとも劣らない大革命でした。たとえば、それまでは職人(織物職人・鍛冶職人・糸つむぎ職人・指物師など)の手仕事によって一つ一つ作られ、狭い地域で流通していた工芸品は、産業革命以降、工場で大量生産される工業製品へと姿を変え、さらに、それらは世界各国に送り届けられる商品となったのです。これによって、それまで手仕事で商品を作ってきた手工業者の同業組合(ギルドや社団)は破壊され、そのなかで営まれてきた親方―徒弟の生活秩序は乱され、また、それを前提に作り上げられていた封建秩序は崩れていきました。他方、それに代わって登場してきたのが、工場労働者であり、また、彼らの労働によって資本を蓄えはじめた資本家=ブルジョワジー(工場主)であり、資本家の「お金」に吸い寄せられるように集まってきた都市民たち――弁護士、金貸し、企業家、作家、芸術家、新聞記者、そのほかのメディアを含む頭脳労働者たち――だったのです。
くわえて、その市民らが嫌ったのが、能力ある「個人」を、古い階級に縛りつける王権国家であり、また先祖代々受け継がれる貴族制と、それを守る「ウィーン体制」だったのです。
実際、その後フランスでは、1830年の七月革命(大ブルジョワジーによる革命)、また、1848年の二月革命(中小ブルジョワジーと労働者の革命)と、立て続けに革命が起こり、さらに、他のヨーロッパ諸国(オーストリア、ドイツ、ハンガリー、イタリアなど)でも、古い王権国家を葬り去るためのブルジョワ革命が次々と引き起こされることになります。かくして、メッテルニヒは追放され、皇帝フェルディナンドは退位を迫られ、古いヨーロッパは、ついにその息の根を完全に止められてしまうことになるのでした。
が、それは同時に、ルソーやカントが語ってきた「個人の自由」が、「資本家の自由」へと回収されていったことをも意味していました。しかし、だからこそ、「資本家の自由」が確立された1848年という年は、その資本に対する組織的=理論的な対抗運動がはじまった年でもあったのです――マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が出され、空想的社会主義を越えた共産主義運動=階級闘争の引き金が引かれたのも1848年でした――。
では、そのとき、資本主義(お金)に向かうでもなく、共産主義運動(政治)に向かうでもなかった、純粋な「個人の自由」は、どこへと向かっていったのでしょうか?
結論から言えば、彼らが向かっていった先にあったものこそ、近代文学でした。
二十世紀ハンガリーの文芸理論家であるジェルジ・ルカーチ(後にマルクス主義者)は、「小説の形式は、他のいかなる形式にもまして、先験的な故郷喪失の表現」であると言い(『小説の理論』1920年)、二十世紀ドイツの批評家であるヴァルター・ベンヤミンは、「長編小説作家は、他から隔絶してしまった。この、孤独のうちにある個人こそ、長編小説が生まれる産屋(うぶや)なのである」(「物語作者」1936年)と書いていましたが、まさしく、フランス革命以前の伝統社会(故郷)にも、そして、1848年以降のブルジョワ社会(資本)にも、その居場所を見出せなかった「孤独のうちにある個人」が向かったメディアこそ、まさしく、どこにも還元不可能な「内面」を描写しようとする近代小説だったのです。
もちろん、それでもまだ「教養小説」( Bildungsroman=自己形成小説・成長小説)の理念が信じられていた十九世紀前半は、その個人(私)の成長過程のなかに、多様な社会生活(公)を統合し、その延長線上に、〈失われた故郷〉の回復と甦りを祈ろうとする小説家の試み――ゲーテや、スタンダールや、ドストエフスキーの試み――も可能でした。
が、資本主義社会が全面化していく十九世紀後半、文学者たちは次第に、その社会化し得ない自らの「孤独」に行き詰まっていくことになります。たとえば、1848年革命からおよそ10年後の1856年、自己実現の夢が凡庸なブルジョワ社会の現実に敗れ去っていく様子を描いたフローベールの『ボヴァリー夫人』が現れ、その翌年には、ブルジョワ社会の現実に居場所を見出せない詩人の心を歌ったボードレールの『悪の華』が現れます。そして、この「孤独」の傾向は、その後、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』(1872年)、ユイスマンスの『さかしま』(1884年)、マラルメの『詩編』(1887年)、ヴァレリーの『テスト氏との一夜』(1896年)などを生み出しながら、反現実的な「美」のなかに、自分だけの〈人工楽園〉を虚構しようとする世紀末象徴主義の系譜を作りあげていくのでした。
ただ、それが可能だったのも、第一次世界大戦までだったと言った方がいいでしょう。それ以前は「個室」に引き籠って言葉を書き綴っていればよかった文学者は、しかし、資本主義の拡大=競争の果てに引き起こされた第一次世界大戦によって、その引き籠るべき「個室」さえ失ってしまうのです。そのとき現れてきたのが、たとえばダダイズムであり、シュールレアリズムであり、また、西洋的教養の「外」に脱出しようとする脱西欧の欲望でした。
二十世紀アメリカの批評家のエドマンド・ウィルソンは、『アクセルの城――一八七〇年から一九三〇年にいたる文学の研究』(1931年)という本のなかで、第一次世界大戦前に多く読まれていたリラダンの戯曲『アクセル』と、第一次世界大戦後の芸術運動に多大な影響を与えた詩人のランボーとを対比しながら、次のように書いていました。
「社会を科学的に研究しようと、社会の改革を企てようと、社会を風刺しようと、どうしても社会に関心を持ちかねる作家にとっては、取るべき道は、アクセルの道かランボーの道か、二つに一つしかない。もしそのうちの前者であるアクセルの道を選ぶならば、人はみずからを自分だけの私的な世界に閉じ込めて、ひたすら自分の私的な幻想を追いもとめ、自分の私的な熱狂を奨励し、窮極的には自分の不条理きわまる妄想をどんなに驚くべき同時代の現実よりも好み、窮極的には自分の妄想を現実と見誤ることになる。もし第二の、ランボーの道を選ぶならば、人は二十世紀をあとにしようとすることになる――現代の工場生産方法や現代の民主的諸制度がまだ到来しないためにいかなる問題も芸術家に対して提起していないどこかの国で、良き生活を発見するために。本書において扱ってきた作家たちは、概してアクセルの道を選んでいる。しかし、大戦後の時代は、ランボーの道を歩んだ作家たちの例を、ほとんど同じ数だけ提供している」『アクセルの城――一八七〇年から一九三〇年にいたる文学の研究』土岐恒二訳、筑摩叢書
十五歳で詩を書きはじめ、それを二十歳で放棄してアフリカへと旅立ったランボー(1854~1891年)の道は、その後、日本に憧れたゴッホ(1853~1890年)、実際に日本へと旅立ったラフカディオ・ハーン(1850~1904年)、タヒチへと向かったゴーギャン(1848~1903年)、メキシコやオーストラリアを経巡ったD・H・ロレンス(1885~1930年)、そしてバリ島演劇に魅せられたシュールレアリストのアルトー(1896~1948年)などに引き継がれつつ、ますます脱西欧の傾向を強めていきます。
が、それらとは違うかたちで、また、自らの新たな甦りを祈る文学者も存在していました。それが、後に「保守思想家」と呼ばれることになる二人の文学者、G・K・チェスタトン(1874~1936年)と、T・S・エリオット(1888~1965年)だったのです。
(註1)
これは決して私の思い付きではなく、たとえばベルクソンに関して言えば、それは実際に、T・S・エリオットや、日本の「伝統」を語った小林秀雄に圧倒的な影響を与えていますし、また、現代の代表的保守思想家である西部邁は、ハイデガーの「解釈学的循環」の議論や、ウィトゲンシュタインの「生活形式」の議論を引き合いに出しながら、それを保守思想の「源流」として論じていました(西部邁『思想の英雄たち――保守の源流をたずねて』参照)。その内実については、次回以降に見ていきたいと考えています。