ヘイトは「不味い」
美味な料理を最高に不味くする調味料は何か? 自分にとってそれは、食事する空間に放り込まれる差別的な言辞である。数年前、最高のネタを握ると言われる都内の寿司屋に連れていかれたが、そこの板前が特定民族の悪口を言い続けるので、怒鳴って店を出たことがある。一昨年はサラエボで愛用していたレストランが明らかにロマの客を差別しているのを見て足が遠のいてしまった。抗議などというものではなく、本当に胃が重くなり、喉は枯れ、舌は鈍り、味がしなくなる。
その意味で最近は某所・某ミャンマー料理店に足が向かなくなった。残念なことにロヒンギャに対する中傷が酷いのだ。にこやかに会話をしていても話題が、このラカイン州の少数民族に移ると、まさにカットで切れてしまうのだ。
「あの人たちは元からミャンマーにいなかったよ。最近になってラカイン州に入って来たベンガル人だよ。ラカイン独立を狙っているテロリストだ」
こう語る店主は生まれ育ちが当時の首都ヤンゴンで、ラカインに行ったことがないのだが、疑義を感じることなくまるでミャンマー政府の代弁者になってしまう。それもいわゆる民主化運動の主体となった「88世代」に属し、NLD(国民民主連盟)のアウンサンスーチーを支持し支援していた人物である。政治亡命のかたちで日本に逃れて来ていて、かつては同じミャンマーからきたロヒンギャの人々と境遇や活動をともにしていたのであるが、ロヒンギャへのヘイトの発信を止めようとしない。
これは決して珍しいことではなく、インテリ層や社会運動家を含めて、ほとんどのミャンマー人は人道的な見地からの同情はするものの、ミャンマー国民としてのロヒンギャの存在を認めようとしない。理由のひとつには、ミャンマー政府が1982年に制定した「ビルマ市民権法(国籍法)」がある。同法はビルマ、カチン、カレン、シン等々、135の民族を土着の国民と認めているが、この中にロヒンギャは入れられていない。この法律によって、公的な歴史教育がその存在を認めなくなってからすでに38年が経ち、民主化勢力の人間でさえ、この官製のデマによってロヒンギャに対する排斥と迫害を煽動されているのである。接客の物腰も柔らかく、普段も良識的な発言を忘れない店主が、ことロヒンギャの話題になると、人が変わってしまうのを見るにつけ、その分断政策の罪深さを感じずにいられない。
心が痛むのは、店から拡散されるロヒンギャヘイトの影響が小さくないことだ。実際、ロヒンギャの迫害の記事につくヤフーコメントなどで「自分はミャンマー料理の店に行って現地事情を聞いたけれど、あの弾圧はロヒンギャの方に問題があるらしい」というコメントが数多く見られる。
「ロヒンギャはミャンマーの民族」
ところが、素晴らしく美味なミャンマー料理店を発見した。それは大阪の南海高野線沢ノ町にあった。店名は「ミャンマービレッジ」。ここの店主、アウンミャッウイン(46歳)は、「ロヒンギャは違法移民」というフェイクニュースを聞くと流暢な大阪弁で常に反論するのだ。
「ロヒンギャが土着やないと言うてる人はロヒンギャの歴史を知るべきや。かつてビルマ政府はラカイン州のムスリム、つまりロヒンギャを国民として認めていたわけや。今になって違法移民とか言っとるけど、そこには矛盾があるわけや。ミャンマー政府のスポークスマンは『わが国を植民地にした帝国主義時代のイギリス政府に問題がある』と言っとる。『ラカイン州のムスリムはもともと住んでいたんやない。イギリス政府がベンガル地方から連れて来たのや』と。なるほど、仮にそれを事実やとしよう。ではイギリス政府はいつビルマを支配していたか? 1885年(※)。100年以上も前や。よそから連れてこられたとしてももう1世紀を超えて定住してるやんか!」
だから、と続ける。
「ロヒンギャは紛れもなく先住していたミャンマーの民族や、彼らを迫害から救わなくてはあかん」
さらには、ミャンマー政府の思惑をこんな風に腑分けしてみせた。
「僕が考えるに、テインセインという大統領が2010年にロヒンギャの票が欲しくて、ホワイトカードという永住権つきの証明書を彼らに渡した。ところが、ロヒンギャは仏教徒に同化するどころか、自分たちのアイデンティティを堅持したままだった。すると、コントロールできないなら出て行けとばかりに、ホワイトカードを渡していた人に、それを全部返せと言い出した。これを日本で分かりやすく言うと、在日コリアンの人たちに特別永住権を渡しておいて、それを返せと言うようなもんやで。そんなもん到底、受け入れられへんよ」
こんなことを公言し続けるビルマ民族の人物にはこれまで会ったことがない。極めて稀有な存在であるが、なぜ彼はかような思考に至ったのか?
それはアウンミャッウインの半生に起因していた。しばし、その背景を羅列する。
民主化運動で捕まり出国
ミャンマー全土を民主化運動が覆った1988年、アウンミャッウインは高校生でありながら、その渦中に身を投じていた。軍事クーデター(1962年)を起こしたネ・ウイン将軍の社会主義政権に対する不満は自分にもリアルにあった。祖父が持っていた土地が全て没収されて国有地にされてしまったのだ。
(※)
編集部注:第3次英緬戦争の結果、イギリスは1885年11月28日にビルマ(当時)の首都マンダレーを占領。86年1月1日、ビルマを正式にイギリス=インド帝国に併合し、イギリス領ビルマとなった。